★マリオットの恋★

08年9月20日掲載







 鏡の前の自分を見つめる。

 何度も櫛を通して綺麗に整えた髪からはオレンジの香り。
 昨日初めて使ってみたシャンプーの香りだ。

 昨晩念入りにスキンケアを行った素顔を際立たせるように薄く施したメイクと、そのなかでも今日の為にと唇に使ったのはマジョリカ マジョルカのルージュマジェキス。

 丸みが綺麗に残るように切りそろえた爪。

 柔らかなオフ・ホワイトのシフォン・ブラウスはラメや刺繍なんかを入れていないシンプルなデザイン。その下のベルトは大きめのバックルで、 焦げ茶色の太い皮ベルトの周りを明るめの茶の細いベルトとシルバーアクセサリーが取り囲んでいる。
 ボトムはぴったりと脚にフィットする黒のパンツで、ふんわりとしたトップとの差を強調していた。

 「よし、大丈夫」

 ………と、言い続けて早3回目。

 経過時間およそ45分、崎 琴葉は未だに鏡の前から動く気配がなかった。





崎 琴葉さんのの秘密。





 今日は特別な日。

 ヘアサロン“マリオット”は開店を前に店員達が準備に忙しく、皆一様に手や足を動かして誰一人休んでいる者はいない。
 そんな光景の中で心ここにあらずといった感じでふわふわと突っ立っているのが一人いるだけでその人間は大変浮く。
“マリオット”のチーフ、崎 琴葉は明らかに挙動不審だった。
 朝から何度も、それこそしつこい位に髪をなでつけたり服の裾を気にしては時折うろうろとそこら辺を歩き回る。
 「琴葉、ウザい」
 店員全員の声を代表して琴葉と一番付き合いが長い、この店で2番目に指名を多く獲得する岬が後ろからケリを入れた。

 「あんた今日も客で予約がいっぱいなんだから朝っぱらからそんなに気合いれて途中でヘタれるんじゃないわよ」

 “マリオット”は都内でも指折りの有名店であり、お客は半年先まで予約で詰まっている。そのなかで最も指名を獲得しているのが誰あろう只今この店内で 一番邪魔者扱いを受けている崎 琴葉だ。
 彼女の場合は有名人の指名の為に出張していくこともあり、余りの指名の多さに向こう半年以上はスケジュールが全部仕事で埋まってしまう程であった。
 この時間なら自分の使う愛用のハサミなどの手入れをしたりと仕事前の準備に余念のないはずの琴葉なのだが、この日は時計をチェックしたり開店前だというのに入り口の扉を気にしたりと落ち着きがない。

 「どうしちゃったんですかねぇ琴葉さん、いつもは黙々と完璧にお仕事こなしてて、私達なんか圧倒されっぱなしだから、近寄り難い雰囲気さえあるのに…」

 働き出して最も日が浅いカンナが、何時までも鏡の前で頭のてっぺんから足の先までを点検しているこの店で一番の稼ぎ頭の姿が余程珍しかったのか、つい手を休めてその背中を眺めながら呟くが、おもむろに後ろを振り返った琴葉とばっちり目が合い、ひゃっと肩をすくめた。

 「すすすすみませんっ琴葉さんっサボっていた訳じゃないんですっ」

 勘気を買ってしまったと思い慌てるカンナは身を縮めて立ちすくむが、琴葉はどんどん近づいてゆき、食い入るような眼差しで見つめてくる。
 もう土下座でもして平謝りするしかないと泣きそうになっているカンナの目の前で正しく土下座でもしそうな勢いで琴葉は縋りついてきた。

 「カンナちゃんっお願い!カフェ・プラチナのプレミアム・チョコレートとパティスリー・サリアンのフィナンシェ買ってきて!今度カットの練習見てあげるからっ」

 「後輩にお使いを頼むんじゃないっ!!店員はあんたの私用の為にはおらんのじゃ!」

 岬に踏みつけられてもシクシクと上目遣いで見上げてくる琴葉の眼差しに負けたカンナは結局頼まれたものを買いに走っていった。
 琴葉は普段決してこんな風に無理を承知の用事を頼んだりする我が侭はしないのだが、月に一回だけとんでもなく我を通してくる日がある。

 それは彼女の可愛い可愛い大事な恋人が来る日。

 付き合い始めて3ヶ月、仕事の忙しさから普段会うことすらままならない琴葉が公然と恋人と会える貴重な貴重な日である。

 得意客に対してサービスとしてドリンクなどを出すのはよくあることだが、わざわざ専門店まで行って客の好みの物を買いにいくなどというのは 余程の著名人相手に対してするくらいで、一般の客にはまずしない。
 けれど琴葉は恋人の為に彼女が一番好きなカフェのプレミアム・チョコレートと一番好きなお菓子のフィナンシェを用意したいのだった。
 買出しに出かけたカンナの背中へ「ありがとうカンナちゃん大好きー!」と頭に花を撒き散らしながら見送った後も琴葉は店の中をウロウロ。
 そわそわ、そわそわ、なんだか首の後ろ辺りがくすぐったい。
 好きな人に会えるという事実が琴葉の足に羽を与える。

 幾つになっても恋は心に眠る情熱を呼び覚ます。

 崎 琴葉は32年の歳月を生きてきた、初恋からこれまで何度も恋をして、誰かを想い、そして幾度か想いを返された。
 働き盛りの30代に突入すると、忙しさからついつい恋愛から無縁の日々を重ねてしまい、その反動かは知らないが久々の甘い気持ちは琴葉の世界を一層キラキラと彩る。

 時計の針が進むのが遅いなんて感じるのは何年ぶりだろう。

 いつも次の仕事の事ばかり考えて一日なんてあっという間に終わってしまうのに。

 鏡に映る自分が、恋人に恥ずかしくない姿であるかを琴葉はもう一度確かめた。

 一番好きな人の前では何時だって一番素敵な自分を見せたい。

 「いらっしゃいませ」

 店内の入り口の方で受付担当の子の声が聞こえた。
 「ご予約の方ですね、お待ちください」
 受付の子はそう言って名簿をめくり、次に再び目線をお客に戻すとニッコリとした笑顔になる。
 「担当は崎ですね、では奥の方へ。荷物はお預かりいたします」
 その言葉を聞いた瞬間に琴葉は歩き出す。
 「ようこそいらっしゃいました、織部さま」
 琴葉に呼ばれたお客は途端に頬をうっすらと染めた。

 はにかみやで、少し俯き加減な顔から上目使いで琴葉を見つめたのは彼女の今最も大切な恋人。
 春のお日様のように柔らかな眼差しの、年下の女性。
 人見知りが激しくて口数は少ないが、思いも寄らないほど気が強くて頑固な面がある。それが知り合った最初の頃に惚れた理由。
 琴葉の双眸にはキラキラとした相手に対する甘やかな輝きが瞬いているが、その眼差しをくすぐったそうに、恥ずかしそうにしながら受け止めるのは7つ年下の可愛い彼女。

 織部 麻柚という琴葉の一番大事な宝物。

 先月から琴葉の指名客としてマリオットに月一回通っている。

 店内の奥へと麻柚を通す琴葉の顔は心なしか緊張に強張っていた。

 どんなに有名な俳優や女優やアーティストを目の前にしたってまったく緊張なんてしない琴葉なのに、恋人の前だと途端にそわそわ落ち着きがない。

 だって当たり前じゃない?と琴葉は思う。

 ここまで心揺さぶられる相手だからこそ惹かれたのだから。

 シャンプー台へと麻柚を促し、ケープをかけて背もたれをゆっくりと倒す。
 琴葉の指がまるで壊れ物を扱うように麻柚の髪をシャワーのお湯にくぐらせてゆく。
 マリオットではシャンプーの際はお客の顔にタオルを当てたりなどはせず、シャンプー台の背もたれも60度ほどの角度までしか倒さない。これが意外とお客の首などに負担をかけずに、尚且つ髪が濡れても首周りに水滴などが染みてこないでシャンプーが出来るのだ。

 ふとカンナが、カットの終わった席の床に落ちている髪をほうきで集めている時にそちらの方へと視線を伸ばして頬の辺りを赤くする。

 琴葉の蕩けるような微笑が輝くばかりに綺麗だった。

 (琴葉さん、いつもは忙しくてシャンプーや仕上げのブローは他の人にまかせちゃうのに…)

 あのどんな時も完璧に髪をつくりあげてゆく長く繊細な指先が、まるで好きで好きで仕方が無いのだというように大事に麻柚の髪のあいだをくぐり抜けてゆく。
 それはもう仕草の一つ一つに愛情が如実に表れていた。
 シャンプーが終わると、カットからスタイリング、ブローまで全てを一貫して行い、琴葉は麻柚の側を離れなかった。
 「見てるこっちの心臓がドキドキします…」

 「あぁん?むしろ惚気オーラ全開でうっとおしくてイライラするんだけど」

 うっとりするような眼差しのカンナと、心底ウザそうに目を背けている岬の双方の反応はまさに天と地の差がある。
 全ての作業が終わって麻柚が受付で会計と次の予約を終えて帰ろうとしている時になっても琴葉の表情に寂しげな色はなく、むしろ嬉しそうな気配ばかりが増えていた。

 「琴葉のやつ…この後の時間も約束してるわね」

 岬の眉間に太い皺が刻まれるのと、彼女へ向かって駆け寄ってくる琴葉の動きは同時だった。

 「岬ぃぃぃ!お願い今日だけ早めに上がってもいい!!?」

 「仕事おっぽり出して女選ぶたぁいい度胸じゃねーか琴葉」

 切れ味の飛び切り鋭そうな岬の視線と怒気の孕んだ声に、隣にいたカンナは恐れをなして逃げ去っていったが琴葉はその程度で挫けるほどか弱くない。

 「アホかお前っ毎日毎日予約客で一杯のお前がそんな事出来るわけないでしょーがっ」

 「お願い岬!岬に頼るのは今回だけにするからっ次からはちゃんとスケジュール調整して岬に迷惑かけないからっっ」

 「……………ったく、何時に切り上げたいわけ?」

 「17時」

 「残りの予約客は?」

 「……5人です」

 岬はめまいがした。

 「たくっ…そんなに頑張って何するつもりよ?」

 「今日は二人で夕食を食べたいから私が手料理を振舞おうと…」

 それを聞いた途端に岬が「料理ぃ!?」と素っ頓狂な声を上げる。

 「アンタ瑣末な事で大事な商売道具を傷つけるんじゃないわよ」

 「酷いわっそれじゃ最初から私が包丁で指を怪我するんだって言ってるようなものでしょ!」

 「“言ってるようなもの”じゃなくて言ってるのよバカタレ」

 「尚悪いわよっそれに瑣末な事じゃなくて私にとっては一番大事なことなんだからね」

 語気を少し荒げた琴葉の頬は僅かに紅い。
 普段店員達の何気ないお喋りに対して気にも留めず、まして一緒に会話する事さえもしない琴葉がこの時ばかりは岬相手に表情豊かに自分の思いを吐露した。
 忙しい店内で僅かな時間だけ二人は互いを見つめたが、やがて岬の方が根負けしたように大きく溜息を吐く。
 それから琴葉のほうへと歩み寄ると彼女の長い指をした手をそっと取ると、先ほどまでとは打って変わって静かな声で言った。

 「怪我だけはするんじゃないわよ」

 琴葉の顔をあえて見ずに、その白くしなやかな五指と指先の桜色の爪を見つめる岬の眼差しは口調とは裏腹に穏やかで、ほのかに温かみが感じられる。
 岬のその言葉に水を打ったように静かになった琴葉は赤らめた頬もすっとおさめて小さく頷いた。

 「ありがとう岬」

 琴葉は次の予約客の為に受付の方へと行ったが、その間にさっきまで逃げ出していたカンナが戻ってくる。
 「珍しいですね、琴葉さんがあんなにお喋りするなんて」
 いつも無駄口を叩かない琴葉に対してある種の畏怖を感じていたカンナがそう言うと、岬は彼女の方を見ないまま呟く。

 「別に琴葉は好きで日頃あんた達につれなく振舞ってるんじゃないわ」

 指名数いつもbPの琴葉。

 周りと群れるのが嫌いで、いつも無駄口を叩かないで仕事する琴葉。

 カットもスタイリングもなんでも上手に出来て当然の琴葉。

 「周りの人間はみんな、マリオットの中にいるのよ…」

 「?」

 カンナが首をかしげた。マリオットはこの店の名前だが、岬の言葉には明らかにそれとは別の意味を感じたからだ。

 いつもプレッシャーに負けないようにしている琴葉。

 人見知りな癖に、お喋りが大好きな琴葉。

 誰にも話しかけないのは、周りが見えないほど打ち込まないと自分が保てないから。

 本当は人一倍淋しがり屋で、繊細で、涙もろい琴葉。

 何でも出来る裏側で、それだけの努力をしている琴葉。

 けれどどんなに頑張っても、いつも指名を誰よりも取っていても誰も琴葉を褒めない。
 彼女は店のbPで、それくらい出来て当然で、周りは彼女を手の届かないような存在として見ている。
 近寄るなんて出来ない人なのだと自らに檻を築く。

 17時までの仕事をきちんとこなした琴葉は急いで麻柚との約束の為に店を出ようとしたが、そのときにカンナに呼び止められた。

 「あ、あのですね、琴葉さん…その…」

 初めて自分から琴葉に離しかけた緊張からか、カンナは何度もどもったが勇気を出して思い切って聞いた。
 「マリオットの意味って琴葉さんは知ってますか?」
 目を見開いて一生懸命にそう問いかけてきたカンナに対して琴葉は一瞬だけ急いでいるのも忘れて考える。
 「…ううん、ゴメンナサイ…わからないわ」

 「そ、そうですか…すすっすみませんっ引き止めちゃって!」

 「いいのよ、それよりも今日はありがとう。今度きっとカットの練習みるからね」

 微笑みながらそう言って手を振りながら走っていく琴葉にカンナはほわっと顔を真っ赤に染めた。

 街のなか、人の間を肩で風を切るように走る。

 (ああ、久しぶり…本当にこんなに嬉しい事は久しぶり)

 早く会いたい。
 会ってたくさん話したい、声を聞きたい、抱き合いたい。
 もう何日も前から今日のことを心の支えにしていた。
 麻柚と何を食べよう、どんな話をしよう、そしてどうやって触れ合おう。
 それだけがずっと胸の中で大きく大きく膨らみ、重さを増した。
 自分の為には素っ気無い買い物も麻柚の為なら心が躍る。

 彼女の好きな料理を作って、好きなお酒をそろえて、そして二人だけの部屋で過ごす。

 必要な物を全て揃え、目を輝かせながらマンションへと帰ると琴葉は早速下ごしらえを始めた。
 麻柚が訪れてくれるまでに最後の仕上げを残して、部屋を片付けてお風呂を沸かす。

 そうしてインターホンが鳴るや玄関へと走り、ドアの向こうの恋人を迎えるとそのまま抱き締めて羽のようなキスを贈った。

 「ねぇ麻柚はマリオットの意味って知ってる?」

 作った料理を二人で全て食べ終え、それぞれお風呂に入り用意されていた程よく冷えたお酒をグラスに注ぎながら琴葉が問う。
 おもむろにそう尋ねてこられて、麻柚はしばし考え込む。

 「ん〜、そうねぇ…これかどうかはわからないけど、一つだけなら知ってるわ」

 「なに?聞かせて」

 「ふふっ…琴葉は人間は目の何処でモノを見てると思う?」

 「…目の…神経?」

 「やっぱりそう思うよね。でも本当は違うのよ。目はね、眼球の奥の視神経のある場所から少し上にある視力の鋭い部分で何かを見るの。だから実際はその視力の鋭い部分で見たものが視神経まで伝達されて人はモノを認識できるようにできてるわ」

 「じゃあ目の神経では何も見えていないの?」

 「そう。視細胞がまったくなくてね、光を感じない…だからそこを“マリオットの盲点”と呼ぶのよ」

 「ふ〜ん…でも、なんでカンナちゃんはそんなこと聞いてきたんだろう」

 わからないなぁ、とぶつぶつと呟いている琴葉に対して先ほど出てきた女の子であろう名前に思わず麻柚はムッと頬を膨らませた。
 「そ・れ・よ・り・も!琴葉、ちゃんと毎日きちんと食べてるの?ちょっと良く顔を見せて!!」
 むにっと麻柚の手が琴葉の頬を軽く鷲掴みながら引き寄せる。
 「もうっやっぱり少し肌が荒れてる!ちゃんとケアしなきゃ」
 そう言うとおもむろに自分のバッグに手を伸ばしてごそごそと何かを取り出す。

 コットンとスキンケアオイルだった。

 たっぷりとコットンにオイルを染み込ませると麻柚は優しい手つきで琴葉の頬や額などをヒタヒタと叩く。
 けれど麻柚のその白い手をそっと掴んで熱っぽく見つめる双眸があった。

 「あのね…麻柚…肌にいい事なら…もっとやってみたいことがあるんだけど」

 問いかけに、麻柚の柔らかそうな頬がさっと染まる。
 その目が切なそうに細まったのを、琴葉は見逃さなかった。

 「…駄目?麻柚」

 少しだけ力無げに聞いてきた琴葉に、麻柚は挟み持っていたコットンをテーブルに置いて睨んだ。
 「本当に、切り出すのが遅いんだからっ…このまま何にもなく帰されるんじゃないかって心配だったのにっ…良いに決まってるわっだってそう言って欲しかったんだから」

 そうして思い切ったように麻柚の唇が琴葉の唇に重なる。
 互いが互いを引き寄せるように腕を回して、二人もつれるように寝室へと雪崩れ込む。

 寝室のドアは閉じられた。

 自分の首に華奢な腕を絡めて全てを委ねてくれる年下の恋人を抱き締めている琴葉は、時が進むたびに愛しさを募らせる。

 「麻柚は本当に綺麗…」

 寝室の明かりはもとから点けるつもりも無く、この部屋を僅かに照らすのはカーテンのすき間から覗く月明かり。
 白い光りがベットシ−ツを淡く染める。
 「麻柚」
 抱きあいながらうっとりと目を閉じていた麻柚は囁かれる声に甘く心を揺さぶられて、閉じている目蓋を震わせた。
 細い指が琴葉の長い髪ごと握り締める。
 すると名前を呼んだ琴葉は囁いた声よりも甘やかに微笑み、閉じられている恋人の目蓋に羽のように柔らかな口づけを贈る。
 愛しい。
 突き上げるような胸の疼き。
 この指先まで届く濃密な想いは、欲望を伴って彼女へと向かってゆく。
 熱をもった瞳で二人見つめあった。
 目元をわずかに紅く染めた麻柚の唇を琴葉は見た。

 ――そう言って欲しかったんだから――

 この唇が語ってくれた告白。

 私は麻柚の恋人で、麻柚は私の恋人なのだと改めて感じられた。

 ゆっくりと麻柚の躰をベッドのうえに降ろす。
 座らせるようにしてベッドのうえに沈ませ、琴葉は彼女のその小さな手をとる。

 弾かれたように麻柚は琴葉を見た。

 そのまま視線が絡もうとしたとき、琴葉の艶のある瞳に麻柚は胸が張り詰めていき、うな垂れてしまう。

 ふっと…吐息のように琴葉の唇から微かな笑い声が零れ、繊細な感のする長い指が、麻柚の頬に触れ、こめかみに伝い髪をかきあげた。
 私を見てくださいと、そう言うように…。

 「麻柚、こっちをむいて」

 こめかみに触れた指は静かに耳の後へとまわる。

 「麻柚」

 しっとりと冷たい恋人の髪を指の背に感じながら首のラインを確かめるようにうなじをなぞっていく。

 「麻柚…」

 肌理の細かな肌は上等の絹のような肌ざわりがする。

 やさしい丸みのある顎のライン、丁度男の両手の指が触れ合うところで動きが止まり、それからそっとその唇に触れた。

 「見つめて?」

 囁きとともに贈られた口づけ。
 指先で触れるより確かな唇。
 どこまでも柔らかな…。

 「…琴葉」

 唇が離れ、麻柚はその名を呼んだ。
 自分が愛する相手を。

 琴葉のことを。

 目の前で微笑む琴葉は麻柚だけのもの。

 自分だけのものだ。

 まっすぐと自分を見てくれる麻柚に、琴葉はもう一度口づける。

 「そう…」

 どこまでも優しい琴葉の囁き。
 伏せ目がちな瞳には麻柚への一途な愛が秘められている。
 胸の熱さが恋人へ伝わればいいと、絡まる視線がそう告げた。

 「そうやって私だけ見つめていて…」

 月の輝きが琴葉の顔に影を落とす。
 熱を帯びた瞳に彼女のなかの情熱の火が揺らめく。
 それを澄んだ瞳で見返す麻柚は思った。

 この人はこんなにも深い情愛をもっているのだ。

 それは琴葉の側にいて知った真実。
 「うん」
 抱き締める自分を抱き返してくれる優しい腕。
 「ずっと側にいて見つめていたい…」
 優しくて、繊細で、寂しがりやなのだと解っている。

 自分が知っている以上に孤独な面があることも。

 「愛してる」

 だから琴葉のものになりたいと思った。

 「全部受け取りたい」

 急き立てられた口づけ。
 強引に身を沈められながら琴葉の指が衣服にかかるのを感じて、麻柚は知らずに身構える。
 自然と手が服の前を掻き合せるように掴もうとするのを、琴葉は優しい仕草で遮った。その時伝わった小さな手の震えに、愛しげに微笑み、 自分の手のひらに彼女の手のひらを重ねさせ、指と指とを搦めていく。
 口づけを深くしながら、自らの性急さを押し留め、ゆっくりと麻柚の衣服の繋ぎ目を解いていき、素肌に触れた。
 塞いだ彼女の唇から僅かに上擦った声があがるのを、琴葉は労わるように舌で上唇を嘗めあげる。
 それから静かに口内へと舌を差し入れ、確かめるような、掻き立てていくような動きで触れた。
 戸惑って逃げる麻柚を巧みに追い掛けて、琴葉は彼女の舌を捕らえていく。
 なお逃れようとする麻柚の逃げ道を閉ざす様にして、琴葉は口づけを激しくしていった。
 素肌に触れた手は曝け出すように麻柚の服をはだけていき、徐々に彼女の繊細な肌を外気にさらしていく。
 琴葉の指が淡く色づいて、ささやかに硬く主張する胸に触れたとき、しなるように麻柚の背が反る。
 ひどく柔らかな感触に、慣れているはずなのに何故か熱いものが全身を満たしていく感覚を琴葉は覚えた。
 労わるように手を繋ぐ。

 唇が離れると、澄んだ声で麻柚は鳴く。

 せつなさが篭もるその声に、琴葉は押し留めているものを崩していくように麻柚の肌に口づけを贈る。
 彼女の衣服を全て奪い取ったとき、琴葉は麻柚の頬に口づけて身を起こした。
 繋いだ手を名残惜しげに離し、琴葉は自分の服を脱ぎ捨ててゆく。
 音を立てながら、彼女の服はベッドの外へと落ちた。
 順にあらわになる琴葉の身体は、まろやかなラインを描く。
 彼女の性格と同様に、その身体には無駄がない。
 そしてどこか儚げで、触れれば溶けてしまいそうな淡雪のようだ。

 再び身を重ねてきた琴葉の肌が熱いと、硬い意識のなかで麻柚は思った。
 絡んだ視線のなかで、彼女の瞳はどこか妖しく艶めいていると…。 

 二人まるで戯れるように触れ合う。

 それは夜の空だけが知る熱い息と肌と気持ち。

 月の光だけが二人を照らす夜のなかで、琴葉は恋人のしなやかな肢体のなかを自分自身で指で愛撫した。
 部屋に響いた愛しい女性の身体の奥で響く水音と、彼女の甘い悲鳴に、琴葉は癒すように口づける。

 心のなかで、琴葉はいつも願う。

 互いが満たされてゆくようなそんな結びかたをしたいと。
 心地よさも、せつなさも、痛みも、全てを含めて麻柚を抱きたかった。
 だから誰よりも優しく、琴葉は麻柚を抱いた。
 誰にも向けたことのないほどの暖かい気持ちを彼女に抱いたまま、彼女に触れる。
 自分も抱かれているのだという事を麻柚が教えてくれるから。

 「…麻柚」

 呼び掛けにきつく閉じた目をうっすらと開いてくれる恋人に、琴葉は彼女の体の奥で蠢く指の数を増やした。
 そして彼女の足の付け根まで顔を近づけると、その小さく尖る部分に優しく口付けて甘く舐め上げる。

 「やはっ…ぁあん…琴葉っ琴葉っ…」

 ぴちゃぴちゃと指と内壁の擦れる音が響く。
 尖りを刺激する度に、溢れる。
 腕を伸ばしてぴんと硬く立ち上がっている淡い胸の突起を摘んではこねた。

 「ひ…ぃん…やぁっ琴葉…いいっ…」

 愛しさに、琴葉は思う。
 この恋を得られて本当に幸せだと。
 互いの気持ちが等しく釣り合いながら愛し愛されることの幸せを。

 「ぁ…はぁ…琴葉、こっちに…」

 麻柚が促すままに琴葉は身体の向きを変えて自分の下肢が彼女の顔の前に来るように移動する。

 「琴葉、好き…すごく好きっ…」

 囁きながら麻柚の舌が琴葉の下肢を愛撫する。
 何もかも曝け出す恋人への愛しさを身体で伝えたいと、何度も唇と舌で琴葉の敏感な部分を舐めては吸い上げ、太腿の内側に赤い痕を幾つも残す。

 溢れてくる蜜を指に絡めながら、静かに奥へ奥へと進めては抜き差しを繰り返した。

 「あんっ…ふ…くっ…」

 執拗に麻柚への愛撫を続けている琴葉の唇からも甘い声が漏れる。

 敏感の感じる場所を何度もすりあげる度に琴葉の形のいい尻がふるりと震えるのを眺めながら麻柚は満足げに目を細めた。

 「んっ…ふっ…や…ぁ」

 押し込め様としてもどうしても唇から漏れてしまう喘ぎ。
 ずり上がって逃げ出そうとしても恋人の強い腕が許してくれなかった。
 麻柚は琴葉の下肢に顔を埋めたまま絶え間なく愛撫を繰り返している。
 余りの快感に琴葉は一瞬足をを閉じようと動いたが、麻柚は離れようとせず琴葉の脚の間にある身体を動かしてやんわりと広げさせた。
 「麻柚っ…麻柚…もっと…して…」
 「…ふ、可愛い…琴葉…すごく…いい…」
 くぐもった声が更に羞恥を煽る。
 「もっと…」
 琴葉のおねだりを麻柚は微笑んで受け入れた。
 何度も何度も濃厚な愛撫を繰り返して、琴葉が心地よさから気が遠くなるまで幾度も口づける。

 琴葉も麻柚も、この日はお互いを溢れるほど満たすまで飽きることなく甘い夜を過ごした。







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後日、琴葉のかわりに彼女の予約客と自分の予約客の相手を一手に引き受けていた岬が満身創痍で次の日やってくると、幸せの花を嫌というほど撒き散らしながら店の中で自分の使うハサミなどの手入れをしていた琴葉に対し、思わず蹴りを入れたという。





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