高城 涼秋が幼い頃に一日だけ一緒に遊んだことのある4つ年上の少年だった桐里 紅琶と再会したのは、初めて会った日から11年もの月日が過ぎた頃だった。 桐里 紅琶の最初の願い 「知り合いの様子を見てきて欲しいの?私に?」 久しぶりに会った兄の藤崎 幸也が知り合いの男が連絡をよこさないのでそいつの住むマンションまで行ってくれと言い出した。 苗字は違うが幸也は涼秋の実の兄である。 両親が10年前に離婚したので二人はそれぞれの親の苗字を名乗っているのだ。 「お兄ちゃんが行ったほうがいいんじゃないの?」 相手にとっては知り合いの妹なんて他人同然のような存在かもしれないし、年の離れた兄である幸也の知り合いということはきっと自分よりも ずっと年上に違いないと思った涼秋は躊躇する。 しかしそんな涼秋の反応にも幸也は首を横に振った。 「すまない、仕事が忙しくて時間がとれそうもないんだ。生活力のない男だからもしかしたら部屋で空腹にでも耐えかねて倒れていてもおかしくない。 俺は病人は治せるが、単に腹をすかせただけの男に料理を作ってやるほどの良心はないし腕も無い。…それに、そいつはお前と初対面という訳でもないしな」 幸也の言葉に涼秋は驚いて目を見開く。 「でもお兄ちゃんと同じ年頃の知り合いなんて私にはいないわよ?」 「そいつはお前より4つ上でまだ21歳だ。…覚えていないか?まだお前が子供だった頃に両親と俺と一緒に桐里家に行った時にいた陰気な小僧を…名前は紅琶という」 仕事から離れてしまうと幸也の言葉には容赦というものがまったくないが、“陰気な小僧”というのはある意味では違った。 幸也が初めて見た紅琶は、まるで仮面を被っているかのように同じ笑顔を貼り付け、ただただ桐里の家の者達に対して逆らわず、 大人しくて礼儀正しい少年だったのだが、幸也にはそれが薄気味悪く、見えない影をまといつかせている様に感じられたのだ。 涼秋は少しだけ長い睫毛を僅かに伏せ、何事かを考える時に彼女がする右手を口元に添える仕草をしながら記憶の糸を手繰り寄せようと試みたが直ぐに首を振る。 「…紅琶…さん……ううん、覚えが無い…」 桐里の家に行ったのは一度きりであったし、なによりその当時まだ涼秋は6歳でしかなかった為におぼろげどころか記憶の一片ですら思い出せない。 「子供の頃に一度会っただけなんてやっぱり他人も一緒だわ…お兄ちゃんが直接会いに行った方がいいわよ」 「…いや、悪いがお前に行って欲しい」 鋭い印象を与える幸也の目元がふと悲しそうに緩んだのを見て涼秋は兄が自分にどうしても相手の元へと行かせたい理由があるという事に気がつく。 「お兄ちゃん…その人…どんな人なの?」 「桐里の主人の妾の子供で母親はあいつを生んで直ぐに他界した…中学を卒業してからは家を出て、それ以来あいつは家には一度も戻った事が無い…どんな性格の奴かは…お前が実際に会って見たほうがいい」 普段滅多に誰かに何かを頼んだりするようなことをしない幸也が、けれど一度言い出したら絶対に折れない性格であるのを知っている 涼秋は結局次の日に学校が終わるとその桐里 紅琶の住むマンションへと行く事にした。 兄の話では紅琶は奨学生として音楽大学で作曲の勉強をしているらしい。 在学中だが現在は作曲の仕事をちらほらするようになり、最近になって古いアパートから少し住むランクを上げてマンションにしては割りと 家賃の安いところへと引越ししたばかりだという。 大学から帰ってくると外に出ることは殆どなく、本当にまともな人間の生活など放棄してひたすら部屋に閉じこもってしまうらしかった。 教えられた部屋番号の前で立ち止まるとインターホンを押してみる。 しばらく何か反応があるだろうと待っていたが、結局5分経過しても相手からはなんの音沙汰も無い。 「本当に引き篭もっているのね…」 どうしようか…やはり引き返そうかと悩んだが、試しに涼秋は玄関のドアノブを握って引いてみた。 するとあっけなく扉は開かれたのだった。 「なんて無用心」 驚きと呆れに涼秋は肩の力がどっと抜けるのを感じる。 しかしここまで来たのだし、兄の頼みでもあるのだからと思い直して彼女は部屋の中へと足を踏み入れた。 「…すごい…足の踏み場がないわ…」 殆どは破り捨てられたり丸められた五線譜がフローリングに散乱しているだけだったが、脱ぎ捨てられた服や、放り捨てられた郵便物などが混じっている。 しばらくして涼秋はこの部屋の違和感に気がつく。 「…食事をしている跡がないわ…」 それどころか生活臭が殆どしない。 人の気配がない。 本当に誰か住んでいるのだろうかと心配になった涼秋は静かに寝室へと足を運んだ。 ゆっくりとカーテンが締め切られて日の差さず、薄暗い場所を覗き込む。 そこには白樺の若木のような青年が横たわっていた。 まったく日に焼けていない白い肌と薄暗い室内で艶のある黒い髪がサラサラと彼の前髪にかかっている。 あまりの神秘的な青年に、涼秋は感嘆の吐息を吐く。 美しいと男の人を相手に初めて感じる。 涼秋は吸い寄せられるように紅琶へと近付いた。 紅琶は静かに寝息を立てて眠っているらしい。胸の高鳴を押さえながら涼秋はそっと傍に寄った。 しかし近くで見た紅琶は若々しい印象をイメージしていたのに反して頬は哀れなくらい痩せこけてその手足は折れそうなほどに細く不健康だ。 想像していた素顔とは少しばかり違い、涼秋は落胆を隠せない。 なぜこんなにもやつれた姿なのかしら…。 涼秋は戸惑いながら紅琶に触れようと手を伸ばす。 伏せられた顔のその頬にふわりと触った途端にその感触は空気とすり替えられた。 はっとする間もない速さで涼秋は空になったベッドを見つめる。 その時小さな物音がして振り向いた先に紅琶が部屋の隅まで逃げ出して涼秋の方を驚愕の瞳で見つめていた。 頬に誰かが触れる気配を感じ取って紅琶は一斉に覚醒していのだ。 「あ…の…」 涼秋が何事か話しかけようとすると、目の前の青年はびくりと肩を震わせて目を零れそうなくらい見開く。 まるで涼秋の声に身動きを封じられたように、部屋の壁に縫い付けられた。 「すみません…わたし…藤崎 幸也の妹で、涼秋といいます…あの、兄からあなたの様子を見てきて欲しいと頼まれて…でも、インターホンを押しても返事が無かったから…勝手に入ってきてしまいました…ごめんなさい」 なるべく相手を刺激しないように静かに涼秋は自分がここにいるのか事情を説明する。 「す、ずあ…き…?」 信じられない光景を目にしているように紅琶は呆然と涼秋を見つめ、まるで夢を見ているかのような、ふわふわと力の入らない声を発した。 「君が…涼秋…」 目の前には紅琶が会いたと切望していた少女の姿があった。 その途端に紅琶はそわそわと目を泳がせて、酷くおぼつかない動作で立ち上がる。見れば彼の膝は震えていた…それどころか全身が小さく震えていたのだ。 「あ…俺…きみが…っ…ごめんっ俺、部屋散らかってるしっ…こんな格好でっ…」 紅琶が言うように今の彼の姿はシンプルな白の寝巻きで、しかも胸元のボタンは殆どとまっておらず、ただ引っかけているだけに等しい。 涼秋もそれに気がついてそっと視線を外す。彼女のその仕草を紅琶は自分に対する嫌悪の表情だと判断した。 早足で紅琶は寝室を出て散らかった物を片付け始める。さっきまで血の気のうせていた顔は涼秋の存在により早くなる鼓動のせいで紅く染まっていたが、 唇をきゅっとかみ締めて苦しげに歪んでいた。 しかし直ぐに隣にふわりと涼秋の気配がして紅琶は驚いて彼女のほうを振り返る。 「手伝います」 そう言うと涼秋は一緒になって部屋の中を片付けた。散らかった五線譜を綺麗にまとめ、棚の中に仕舞ってゆく。 ふと、棚のある楽譜が目にとまった。 「これ、現代曲ですよね」 嬉しそうに紅琶を振り返りながら涼秋が尋ねると彼はゆっくりと頷く。 「そうだよ」 涼秋の興味を引いたその楽譜を、そして彼女の細くしなやかな指先を気づかれないように、けれど熱く見つめながら紅琶は内心酷く緊張しながらも問うてみた。 「音楽に…興味があるの?」 紅琶の問いに、涼秋はにっこりと微笑んだ。 「はい、実は吹奏楽をやっているんです」 紅琶は、涼秋が音楽の話に楽しそうにするのを見て彼女との共通の話題が得られたのだと喜んだ。そして少しでも長く彼女の笑顔や声を聞いていたくて再び尋ねる。 「楽器は何を?」 「サックスです…アルトサックス。私、この作曲家の曲が大好きなの」 近年では高校のコンクールでも近代曲や現代曲を選んで参加する吹奏楽部はよく見られる。クラシックのようなその時代の時代背景をよく理解して演奏する深みや叙情性がないと言われることもあるが、注目されているのも確かであった。 「ごめんなさい、片付けの途中でしたね」 笑顔のまま涼秋はまた手を動かし始める。彼女との会話が途切れて残念に思いながらも紅琶はこうして隣にいられることが幸せだった。 部屋の片づけが終わると涼秋は紅琶のために台所にあったインスタントのコーヒー…(半分以上残っているのにしけってしまっていたが) …をいれ、何か食べてもらおうと冷蔵庫を開けたのだが中には飲料水のペットボトルが数本以外なにも入っていない。 なんとなく察しはついていたが本当にきちんとした生活からは程遠い暮らしをしている。 そういえば台所をちらっと見たが調理道具と食器は必要最低限だけ揃っていたがまったく使用された形跡はなくピカピカで、それ以外は調味料すら何も無く、 こんなことで本当に今までどうやって一人で暮らしていたのだろうかと不思議に思う。 「今から買出しに行って来ます」 そう言って出かけようとした涼秋の後を紅琶は追ってきた。 「ここから一番近いスーパーでも結構歩くんだ…お金は勿論俺が払うし、荷物も俺が持つよ」 言いながら微笑む紅琶の顔を見て、涼秋は意外なほど柔らかな印象を受ける。確かにやつれて顔色もあまり血の気がなく心配になるが、 眼差しの優しさにドキリとさせられた。 (…少し緊張してきちゃったな…) 涼秋の中で紅琶がだんだんと異性として意識しだす。そして意識しだすと彼のために料理を作ることがだんだん恥ずかしくなってきた。 (もう少し…ちゃんとお料理とか勉強しておけばよかった…) 涼秋自身、自分の料理の腕ははっきり言って兄の幸也よりも僅かにマシな程度だと思っていたので、一緒にスーパーまでの道のりを歩きながら彼女は益々小さくなる。 だが涼秋は心配性で世話焼きな性分だった。兄が言った通り、紅琶は生活力が皆無といっていいのではなか?台所には既にその片鱗があったしこのまま 帰ったとして彼がそのあとちゃんとした食事を果たして摂るだろうか…いや、きっとしないだろう。 あっさり出た結論に涼秋は気を取り直してスーパーまでの道のりを歩いた。 目的地に着くと涼秋は出来あいの惣菜を幾つかとお米、それからお味噌汁の材料と卵に調味料を幾つか買い求めた。時間も時間であったし、 マンションに戻って支度をしても遅めの夕食になってしまう。 紅琶は約束どおり買った荷物を持ってくれ、細いなりにも実は人並みに力があった彼は帰り道の間疲れた様子をまったく見せなかった。 部屋に戻ると涼秋は新品同然の調理道具にやっと日の目をみさせることに成功する。炊飯器はなかったのでお米は鍋で炊く事にした。 「あとで炊飯器をちゃんと買うように勧めよう…」 きっとお金が無いという理由じゃなくて単に自分でお米を炊いて食べるという概念がなかったに違いないのだ。 そうして涼秋が夕食の支度をしている間、紅琶はダイニングから彼女の様子をじっと眺めていた。 テーブルの上に温かい料理が並ぶのを、それを作ったのが涼秋だということをまるで夢を見ているような目で見つめる。 「いただきます」 食事を始める挨拶さえもどこか夢うつつのように発して紅琶は一口、二口を箸をすすめてゆく。するとその白い顔に少しずつ赤みが差して、 それだけで涼秋は彼に対して先程よりもずっと健康な印象を受けた。 しかし紅琶の手首や、箸を持つ指や、少し傾けた首などを見ると本当に痩せていて涼秋は心配になる。 今日はきちんと夕食を摂ってくれたが明日は、明後日はどうだろう…寝室で初めて彼を見たときのあのやつれた感じが気にかかり、このまま不摂生を続けていたら本当に栄養失調になって倒れてしまわないだろうか?と疑問がよぎった。 「あの、紅琶さん」 行儀良く食事をしていた紅琶はすぐに涼秋に視線を向ける。 「なに?」と眼差しだけで聞いてくる目は変わらず穏やかで優しい。 彼が涼秋のことをお節介だとか悪い印象を持っていないのがわかり、それに励まされて切り出す。 「私の吹奏楽部の練習がない日には、またご飯を作りに来てもいいですか?」 その言葉に紅琶の耳がぽっと赤く染まる。 「ほんとに?」 途端にその面が破顔した。 「俺、君が来る時にはちゃんと材料とか買っておくから」 嬉しそうにそう語る紅琶に涼秋は自分の言葉が受け入れられて安堵する。 ふと紅琶が疑問を口にした。 「そういえば君の分のご飯は…?」 テーブルに並べられているのは紅琶の分だけで涼秋のはない。しかしそれも当然で、食器は一人分しかなかったし箸もコップも一人前しかないのだから。 「私の分はいいんです」 自分のことなら家に帰ればなんとでもなるのだ。帰るまでに我慢できなかったらコンビニやファーストフードで何か軽く食べればいいのだと思っていた。 「だったら…次の時には君の分も一緒に買う!食器もカップも揃えておくから…」 「……駄目かな?」と自信無さ気に聞いてくる紅琶に涼秋は微笑む。 部屋に引き篭もってこんなになるまで自分のことをほったらかしにしてしまう人だからもっと人嫌いなのかと思っていたのに紅琶はそれとは違って 涼秋に対して好意的で少年のような懐っこさを見せる。 「安いのでいいですから、炊飯器も買ってくれると助かります」 その要求にも紅琶は直ぐに頷いた。 食事を終えて片づけを済ますと涼秋は帰り支度をする。 紅琶はそれを眺めながら、やはり彼女は帰ってしまうのだとさっきまでの夢のような時間が名残惜しく、唇を噛む。 玄関口で涼秋は寂しさを隠しながら見送る紅琶に最後に言った。 「また楽譜も見せてもらってもいいですか?」 その言葉に紅琶は頷く。 「楽譜を見るだけでもいいから何時でもおいでよ」 涼秋が来るなら自分はどんな時でも待っているのだという思いを込めて紅琶は言った。 ドアが閉まり、彼女が帰った後も部屋から涼秋の気配が…温もりが残っているようで紅琶は幸せだった。 (……今日は…誰とも会いたくない…) 一夜限りの相手を探して深夜に街を彷徨うことには慣れていたが、今日の紅琶は違う。 涼秋が…いた。 何年も何年も焦がれて…会いたくて…求めていた少女。 「すずあき…」 いつもそうだった。 毎日が凍える雪のように寒くて自分の心は疲弊し、枯れはててゆくばかりで絶望し、静かに精神は死への呼吸を始めつつあったとき…。 そんな頃に自分はいつも彼女に出会う。 淡い銀の光のような…希望に。 一夜だけの関係を求めて今まで数え切れない相手とお互い自分勝手にその欲を満たすだけのセックスをしてきた。 けれど今の紅琶の心には涼秋がいる。 彼女だけが…いる。 他人と肌を合わせることに微塵も興味を無くした紅琶は既に涼秋以外の人間をその心に住まわせることを許さない。 けれどその身体は、さっきまでこの部屋にいた涼秋の残り香や、頭に焼き付いている彼女の声や微笑を思い出して全身を熱く火照らす。 「すずあき」 こんな浅ましい自分を彼女の前に曝す事なんてきっと出来ない…。 紅琶はそろそろと自分の下腹部に手を伸ばす。 既にそこは熱を帯びて硬くたちあがりかけていた。 「…っ」 涼秋…涼秋っ 会いたかった…声が聞きたかった…傍にいたかったっ 10歳の頃にたった一度だけ一緒にいた少女のことが忘れられなかった。 「…はっ…すず、あ…き…ぁ…」 あの瞳に見つめてもらいたい…あのやわらかい唇が動いて自分のことを呼んでもらいたい…あの小さな手に触れてもらいたい…自分の全部にっ! 子供のままではいられない男としての自分の欲望に紅琶は目を背ける事が出来なくて、下肢の中心の熱は手の動きに合わせて更に質量を増す。 「っあぅ…涼秋…すずあきぃ…っ」 紅琶の願いはあの時からいつも一つだった。 涼秋の全てになりたい。 先走ったもので手が汚れて滑らかさが増す。 こんな浅ましいっ…こんな汚れた体の…俺を…っ ああそれでも…っ愛されたい…っ 自分の何もかもが…涼秋のものになれれば…どんなにっ 涼秋の手で愛してもらえたら…どんなにっ 唇で…俺の全部が彼女のものだと言ってもらえたら…っ 白濁としたものが紅琶の手の中で広がった。 それを見て、手の動きを止める。 鼓動が倍の速さになって、荒い息で呼吸を繰り返しながら紅琶は泣いた。 喜びと切望と、この恋のやりきれなさに。 でも、それでも… 「涼秋は俺に会いにきてくれた…」 それだけが今の紅琶には全てだった。 |