★銀の星降る降る★



08年3月7日アップ








 桐里家は年に何度か大勢のお客を招いてパーティーを開く。

 人の目の無いところで紅琶に暴力を振るっていた桐里家の子供は、この時も自分と紅琶しかいない 裏庭で彼に暴行を加えていた。
 それは最早いじめという程度を超えて相手を本気で殺しかねないほどにエスカレートしており、紅琶は自分よりも一つ年下でありながら、体格は遥かに大きい義理の弟からの殴る蹴るの暴行に既に意識が飛ぶ寸前だった。



桐里 紅琶の大な願い



 しかしふいに弟のすぐ近くで鈍い音がして「ぎゃぁっ!」という叫び声が上がる。

 朦朧とする意識の中で辛うじて紅琶が一体何が起こったのかと目を凝らすと、 自分を痛めつけていた弟が地面に這いつくばって片足のスネから血を流していた。
 顔を真っ赤にして痛みに歪ませながら弟が怪我をした足を庇うように手で押さえている後ろに小さな人影が見える。

 (女の子…?)

 自分よりもずっと小さな女の子が手に園芸用のスコップを持って立っており、そして泣きじゃくる弟を 冷たい目で見下ろしていた。
 彼女のまるでもみじの様な柔らかい手に握られているスコップには血がこびりついている。
 弟のスネを打ったのは間違いなく彼女だった。小さな女の子は自分よりも遥かに体格の大きい男の子を 打ち据えたにも関わらずその目にもその表情にも怯えや戸惑いを浮かべた様子は微塵も感じられない。
 地面を這っていた弟が今度は怒りに顔を真っ赤にして女の子に殴りかかろうとすると、 彼女は今度はスコップの柄の先端を殴ろうとする拳に叩きつける。
 それは本当に叩き付けたといった表現が的確なほどで、もしかすれば弟の拳の骨が砕けたのではないかと 紅琶に思わせた。
 「うぎゃぁっ!!」と二度目の悲鳴を上げて弟は地面に再び這うことになり、痛みの激しさから左右に激しく転がる。

 その叫びを聞きつけて弟の母親がやって来たが、彼女は嗚咽を上げて助けを求める息子よりも 女の子の方へと視線を向けて「この子が何かお気に障るようなことをしたのでしょうか…お嬢様?」と どこか媚びた口調で話しかけた。
 女の子はその言葉には何も答えない。釣りあがった柳眉は確かに彼女が怒っている証拠だったが、 そのふっくらとした唇からは何も語られる事は無かった。
 握っていたスコップを地面に放るとすたすたと歩き出す。
 「ひっ」と弟が女の子の一挙一動に恐怖した。しかし彼女はそんな弟などまるで眼中に無いようで、 彼の横を通り過ぎると次第に紅琶のほうへと近づく。
 そのとき初めて紅琶は女の子の姿をはっきりと目にした。
 紅琶の義理の弟に対してあれ程の痛手を負わせたのは本当にこの少女なのかと思わせるほどに可憐な姿。
 凛とした立ち姿はまるで百合のように清らかで、子供特有の丸のみある頬は薄薔薇色、 小さな鼻はスッと鼻筋が通り、その下の唇は艶がありふっくらとしていた。そして長い睫毛に縁どられた 黒い双眸が真っ直ぐに紅琶を見つめる。
 目の前の少女は紅琶が今まで見てきたどんな人間とも違い、それまでの彼の人生に纏い付いてきた 淀んだ空気を全て払拭して清涼なものへと変えるほどの力を持っていた。
 心の曇りが去った紅琶にとって、あれほど愛情を求めていた桐里の家族は卑小で軽薄な存在に映り、実の息子が泣いているのに見向きもしない義理の母の目が濁った魚の目ように不気味に感じられる。

 少女は紅琶のほうへと近づいてゆく。

 その小さな足が、一歩一歩自分に向かって近づいていく度に紅琶は胸の鼓動が次第に早く強く鳴り 響くのを感じた。
 しかし少女は紅琶のことを一瞥すると彼を通り過ぎてそのまま裏庭を抜けて行こうとする。
 紅琶が胸の期待が裏切られてゆくのを感じたのと同時に彼女は背を向けて歩き去ってしまった。

 「紅琶っ!」

 義理の母の咎めるような声は紅琶には最早どうでもよく、暴行を受けた体の痛みすら忘れて彼は 少女のあとを追うために起き上がり駆け出す。


 追い掛ける先にはひらひらと舞う黒髪。

 少女の髪。

 胸が潰れるほど痛い…見失わないか恐ろしくてただ必死に彼女の後ろ姿を追う。
 自分に気がついてほしい…けれど気づかれて、少女が自分をどう思うだろうと考えると更に怖かった。
 紅琶を一瞥した時の少女の瞳は何を思ったのだろう。
 不恰好で、傷だらけの自分を見られるのは酷く辛い。
 髪は艶もなく不揃いで、少し骨張った顔も体も通り過ぎる人間たちからは奇異な目で見られた。もしも少女にこんな目で見られたらと想像すると走る脚は震えて、今にも崩れそうだ。

 (待って…)

 「待って!」

 それでも紅琶は少女を見失う事だけはしたくないと初めて大勢の人の前で大声を上げた。
 周りからは少なからずどよめきが起こったが紅琶が見つめる先にいるのは小さな後姿だけ。
 息を詰めて紅琶はただ真っ直ぐに少女だけを見つめた。

 ゆっくりと肩口までで切りそろえられた少女の髪が揺れる。

 振り返った少女はさっきまでと同様、躊躇いなく紅琶に向かって歩き出すと今度こそ 彼の前で立ち止まりその手を掴んだ。
 紅琶があっという間もない速さで彼女は掴んだ手を引いて桐里家の庭であるパーティー会場を抜け出ていく。

 「藤崎くん、さっきの子は君の妹ではないかね?」

 二人が去った後にそれまで様子を見ていた幸也に声をかけてきたパーティー客の一人に対して彼は静かに笑う。

 「子供のする事です、些細な事で喧嘩する事もあるでしょう…でもあの通り仲直りも済んだようですし皆さんも子供の事は子供同士にまかせておく事にいたしましょう」

 幸也にしても内心では妹がこのような場であれだけの事をするのには理由があるのだということには気づいていたし、桐里の家の妾の子供が本妻とその子供から手酷い扱いを受けているのにも感づいていたが変に騒ぎ立てる事をしない為にも二人の事は他愛もない子供の喧嘩として周囲に納めさせておくことにした。

 そんな事をよそに紅琶の手を引いて歩いていた少女は自分たち以外に誰もいないところまで来ると自分のことをじっと見つめてくる紅琶に静かに、けれど捲くし立てるように続けざまに話しかけた。

 「この家の人間の顔色をうかがいながら、大勢のお客様の前であなたはニコニコ笑顔でご挨拶をしていたけれど…それを見て…なんだかとても…嫌な気分になったわ…」

 「あなたが欲しいものは…本当にこの家の家族が与えてくれるものなの?」

 「本当に欲しいものが得られないのは辛いけど…他の誰かを身代わりに自分を誤魔化すのはもっと辛くて、悲しいわ…」

 少女の言葉は紅琶が心の奥底で気づきながら、それでも目を背けていた真実。

 義理の母に対してどんなに面影を重ねようと努力しても決して重なる事が無かった自分の母に こそ紅琶は愛情を求めていた。
 本当に必要とされたかったのは桐里の家の人間にではない。
 ありのままの自分を受けて入れてくれる人にこそ求められたかった…。

 「…あ、の…」

 紅琶の声は掠れて酷く上ずっていたがそれでも少女の耳には届いた。

 「君の名前は?」

 少女はなぜ紅琶がそんなことを聞くだけでこんなに緊張するのかわからなかったがはっきりと答える。

 「藤崎 涼秋です」

 すずあき…。

 紅琶は胸を焦がす。
 涼秋に己の全てを求めてもらいたいと切望した。
 それは紅琶が彼女に再会するまでの何年もの歳月の間まったく色褪せることなく、 むしろ更に鮮明に…紅琶が少年から青年へと成長するにつれ次第に愛欲を含ませながら 確かな形となって胸を締め付け、痛みと共に情熱を迸らせる。
 涼秋を想う時に紅琶は自分の心を実感できた。
 人を愛するという気持ちを感じて、ただ涼秋だけを想う。

 だから紅琶は涼秋を捕まえる事が出来たら…二度と手離す事ができなくなることも確信していた…。

 涼秋が紅琶の住むマンションにご飯を作りに行ったり、楽譜を見せてもらうために時折足を 運ぶようになって半年が過ぎた。
 必ず紅琶の携帯にメールを送り、これから行くと連絡してからマンションに訪れるが、 涼秋の来訪を紅琶が断った事はこれまでに一度も無い。
 いつもドアの前に涼秋が待っていると、嬉しそうに扉を開けて招き入れる。

 相手の部屋に気兼ねなく訪れる間柄でありながら、涼秋と紅琶の関係は未だ恋人同士と呼べるようなものでもなく酷く曖昧なままだったが。

 この日涼秋は兄の幸也とカフェで会っていた。
 両親が離婚してからも幸也の都合がつく時はこうして店で待ち合わせをして相談することが 涼秋にとっては大事な時間。
 幸也は妹から紅琶の話が出ると僅かに目を伏せてコーヒーを一口飲んだ。

 「そうか、桐里とは会っているのか」

 涼秋と紅琶、二人を引き合わせたのは他でもない自分だったが、幸也は胸に一抹の不安が過ぎる。

 「あいつの事が好きになったのか?」

 その問いに涼秋は口をつぐんだ。兄にはっきりと紅琶のことを好きなのかと聞かれた事に 恥ずかしさがこみ上げて、その頬はほの赤く染まっている。
 もしも涼秋が紅琶のことをなんとも思っていないのであったらこんな反応はしないということに 幸也は感づいていた。
 幸也の脳裏に、必死になって涼秋のことを聞いてきた紅琶の姿が浮かぶ。

 涼秋が紅琶と初めて出会った次の年に両親が離婚し、それ以来彼女は桐里の家には 一度も訪れる事がなくなった。
 だから紅琶は幸也が年に一度、桐里の家に訪れるとき何度も何度も問いただした。

 (涼秋は今何処にいるんですか!)

 (お願いですっ一度でいいっ…会わせてくださいっ)

 そう言って幸也を射抜く眼差しの力強さを今も覚えている。
 紅琶が中学を卒業した後に桐里の家を出たと聞いた時は、もうこれで会うことも無いだろうとそう思っていた。

 けれど自分と紅琶の…いいや涼秋と紅琶の縁はそこで途切れた訳ではなかったのだと 気づいたのは半年前。
 内科医を営んでいる幸也の医院に紅琶が訪れた事がきっかけだった。

 一目見ただけで幸也には目の前の青年があの時の陰気な子供だとわかったし、 それは紅琶のほうも同じであった。
 再び涼秋の事を執拗に問う紅琶を幸也は無下に帰してしまったが、心の奥で警鐘が鳴るのを感じる。

 昔よりもずっと深みを増した涼秋への想いを抱えたまま紅琶は大人になっていたのだ。

 なぜかこの時、幸也はいずれ涼秋が紅琶に捕まえられてしまう予感がした。
 自分がどれだけ紅琶から涼秋を遠ざけようとしても、この青年は決して諦めはしないだろうという確信がある。

 涼秋という存在がなければ紅琶は救われない。

 それを嫌というほど理解できるのは、幸也も同じように誰かに愛を請うたことがあり、そして自分の心を救ってくれた相手が今彼の傍にいてくれるからだろう。

 診察室で見た紅琶はよほどの不摂生をしているのが一目でわかるくらいやつれ、 このままではいつか本当に身体を壊すのは一目瞭然だった。
 瞳の奥の孤独は拡大し、彼の心の荒んだ景色を映し出す。

 (救われたいと望むものが…どうして救われないままでいられる?)

 逡巡したのち、幸也は涼秋を紅琶に会わせた。

 (…だが…)

 紅琶の涼秋への想いの激しさが幸也を不安にさせる。

 愛して、愛されて。
 求めて、求められて。
 心通わせて身体を繋げても…。
 人の心はそれだけじゃないということを幸也は知っているから。

 「涼秋…」

 「ん、なに?」

 屈託なく自分に笑いかける妹。

 幸也にとっては小さな頃も今も涼秋は守らなければいけない存在。
 そしてまだこんなにも幼い存在だ。
 他人の、そして自分の心の機微に戸惑い、翻弄される。

 (紅琶が涼秋に愛されたかった様に、この子もまた紅琶に愛されることを望んでいる。)

 けれど紅琶の激しさは涼秋を傷つけるかもしれない。

 本当はもっと大人になるまでは紅琶に会わせない方が良かったのだろうか…涼秋がちゃんと自分で決められるまで。

 「どうしたの、お兄ちゃん?」

 「…いや、すまない…なんでもないんだ」

 涼秋はとんでもない相手に愛されたのかもしれない。
 意志の強い心とは裏腹にこの子は他者の感情に呆気無いまでに翻弄される一面を持っている。
 あそこまで一途に、ひた向きに激しく相手を求めてくる紅琶は、きっとそこらの恋愛に手慣れた男よりもずっと扱い難いだろう。

 「もっと自分を大事にしろよ」

 「もうっなによそれっ」

 「あんな生活力の無い男なんて苦労するぞ」

 「紅琶さんは一生懸命ですっ…ちょっと家事が出来ないだけよっ!!」

 「ちょっとどころの話だったのか?」

 「………そ、それは…」

 言葉に詰まる涼秋を見てこの時めずらしく幸也は声を立てて笑った。

 「相手のことばかりじゃなくて、もっと自分の事もよく考えろよ?」

 他人の気持ちなどは自分を大事に考えて初めて尊重できるものだと幸也は思う。
 自身を大切にできない者には結局、そのほかの人間を思いやることなどはできないのだから…。

 涼秋にとって愛し愛される相手が紅琶である必要は無のかもしれない…けれど、紅琶のほうでは涼秋しかいないのだ。

 そして幸也は紅琶と涼秋の出会いを促した。

 そしてそれは確かに紅琶の心を救ったのだ。





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