ツカツカと廊下を足早に進む青年は、苛立つ感情をなかば仕舞いきれずに表情に出しながら無言でただ前に進む。 見慣れた景色には目もくれずに彼は幼馴染の部屋の前まで来ると少々乱暴にドアを開けた。 「おい!静歌(しずか)…」 数日前に急に倒れて、今はベッドの上の人間の名前を呼ぼうとしたが、目の前の幼馴染が今の自分以上に怒りの感情を隠さないまま寝ているのを見て、逆に馬鹿馬鹿しくなり、うんざりといった口調に切り替える。 「…静歌、お前また体調崩したのかよ?」 沙都さんの溜息は尽きない。 静歌と呼ばれたのは青年と同い年くらいの年齢だった。 名前こそ女性を思わせる響きだが彼はれっきとした男だ。 静歌は目をすがめ、之宮を一瞥すると不愉快そうに視線をそらす。 「之宮(ゆきみや)、何しに来た」 之宮(一応苗字でなく名前である)は思わずイラッときて静歌に近づくと軽めに彼の頭を平手で叩いた。 するとカッと目をむいた静歌によって鳩尾に拳が飛んできてドスッという鈍い音と共に之宮は声も無く腹部を押さえてしゃがみこむ。 「おまっ…少しは加減しろよ…」 搾り出すようになんとか之宮は声を発し、恨めしそうに静歌を見る。 この二人はお互い小学校入学からの縁で、現在の大学の学部まで一緒という腐れ縁的間柄であり、周りから余程太い糸で繋がっているとよくからかわれているが、当人達は「そんな糸はさっさと腐りきって落ちろ」と本気で思っていた…まぁそんな感じの関係。 「お前に用は無い。帰れ」 簡素極まりなく静歌が相手の方を見ないまま言い放つが、之宮はまったくさらさらその気は無く、むしろ居座ってやろうという気満々だったので、にっこりと微笑みすら浮かべて「やだね」と短く答えた。 表情こそ笑みがあるが、彼の周りから滲む雰囲気が完全にそれを裏切っている。 之宮は見た目こそ涼やかで精悍な顔立ちの男だが、中身は一度根に持ったらしつこい奴だ。 一方、静歌は自分がよく風邪を引いて持病の喘息の発作の為に何度も寝込んだり医者の世話になったりを繰り返すような毎日を送ることを少々気に病み、繊細を通り越して神経質な部分を多く残して大人になった。性格も思い切り顔に表れていて、話し方も刺々しい男である。 いつも溌剌としている之宮を羨望していた頃もあったが、現在では奴のねちっこい性格を知った為にぎゃあぎゃあと煩い男という認識へと変わった。 逆に之宮は、出会った最初に細っこくていつも黙りこくっている静歌を同い年でありながら弟分(舎弟)のように接したが、途端に全力の反発を受けて「コイツはなよなよしたお坊ちゃんじゃない」と考えを改め現在に至る。 「俺は沙都さんから連絡もらってお前の様子見て来いって言われたんだよ」 “沙都”という名前が出た瞬間に静歌の顔色が一変し、瞬きすら忘れて彼は虚空を睨み、唇をかみ締める。 之宮は尚も会話を続けようとした。 「沙都さ…ぐふっ…お前ッいい加減に俺が彼女の名前呼ぶ度に怒るのやめろよっ!」 もう一度沙都の名前を出した瞬間、静歌は之宮の腹に一撃を見舞う。 「お前の声で沙都さんの名前を聞きたくないっ」 相変わらず之宮の方を見ないまま静歌が苦々しく吐き捨てた。 そして再び暴力に訴えそうになる自分の拳をぎゅっと爪が食い込むほど握り締める。 静歌の神経質な一面は、時折彼を癇癪に駆り立てるが一度としてその感情のまま誰かを傷つけたことは無い。 之宮への態度も、それが之宮自身の中で許される範囲である事を承知して行なっていた。 だが静歌が凄まじく我が侭なのは確かである。 昔は遠足でも修学旅行でも、やれ自分はここへ行く、あそこは気に喰わないと団体行動を嫌がり我を通そうとして手を焼いた。 終いには一人で抜け出して後で担任から大目玉を食らっても本人は何食わぬ顔をしていたが。 20歳も過ぎて随分自律してきたが、数日前も静歌は大学で倒れた時に救急車で病院に運ばれ、そのまま経過を見るために入院したのだが、まだ外出許可が下りていないのに病室を抜け出して担当医と看護師からさんざん説教を食らっている。 「俺には会えなくても、之宮とは…」 イライラとした感情を隠さないままそう吐き捨てるように呟くと静歌は唇を噛む。 沙都とは二人よりも4つ下で、まだ高校2年の少女だ。 なぜ二人とも彼女の事を“さん”付けで呼ぶのかというと、彼等が大尊敬する現在大学院に通う先輩の妹であるという理由ともう一つ重大な訳があった。 大学時代はその美貌と賢さで学生の誰もが憧れ、敬愛し、絶大な人望を誇っていた女性、浮橋 緋沙緒(うきはし ひさお)は自分の年の離れた妹をそれはもう溺愛しており、沙都に下心で近づく人間をそれはもう知られざる猛将の如き強さで断罪していた。 それが発覚した時から二人の中の美人で頭脳明晰、優しく頼れる大学一のマドンナはチンピラ風情なら泣きながら裸足で逃げ出す豪傑へと変貌したのである。 静かに闇に葬られていった数多くの人間の末路を知っている静歌と之宮はこの大先輩を絶対に敵に回してはいけないと心の大事な部分にドリルで刻み込んだ。 二人の賢い部分が、何があろうと緋沙緒の妹に迂闊に近づいてはいけないと言う事を理解していた。 …わかっていたはずだった。 しかし沙都に会った途端、静歌の中でそんな決意は砕け散る。 姉に会いに大学に来た沙都は眠れる獅子をその身に宿す帝王の如き笑顔の緋沙緒の横で微笑みかけた。 その瞬間にあれだけ強く決心したドリルの誓いは吹っ飛び、緋沙緒が放つダーク・サイド的なフォースですら揺るがす事の出来ない想いに静歌は満たされる。 食い入るように一心に沙都を見つめた静歌の眼差しのあまりの一途さに気づいた之宮が隣で真っ青になりながら(ちょっおまっ…どうして突然最悪の一目惚れフラグ発生させてるの!?そして先輩ぃぃぃぃっなんですかその静歌に向けるロックオン的視線はぁぁぁぁぁ!?早まらないでっ暗黒面に落ちるのはせめてコイツが何かしらの行動を妹さんに起こしてからにしてぇぇぇぇぇ!!!)と心の中で吼えた。 渦巻く思いでいっぱいいっぱいだった之宮は弁慶の仁王立ちの如く静歌と緋沙緒の間に割って入り、内心では(イタッ…痛いっ!?先輩の視線が物理的に痛いっ!?なぜ!?レーザーでも出てんのかっ)ともんどりうったという。 なまじ緋沙緒の闇伝説を知っている身だからこそ彼は静歌を見捨てられなかったのだろう。 放っておいたらきっと一生消えない傷を負うと確信できた。 そんなリアルに身を挺して庇ってやった恩を静歌は仇で返しまくっている。 「そりゃお前、4つ年上の男の家になんて中々来れないさ。沙都さんの性格を考えろよ、いまどき珍しくそういうところが律儀な子なんだってよくわかってるだろ?」 「…っお前に言われなくたって知ってる!…コホッ…ゴホッ…」 「おい、あんまり興奮するなって…」 「年が離れてるのは今更だ…っ…ゴホッ…そんなわかりきった、こと…ゴホッ」 「静歌、悪かったよ…だから少し落ち着け」 「…そんな理由で、会いたくないって沙都さんは…コホッ…言ったの、か…?…ゴホッ…ゴホッ…」 ベッドに臥していた静歌は急に上体を起き上がらせると之宮の腕を掴み、矜持の高い目が不安を見え隠れさせて睨んだ。 喘鳴と呼吸困難から必死で息をしようとする静歌の顔色は土気色でそれを見ていた之宮は胸が冷たくなった。 そこに部屋の中へ静かに入ってきた少女が静歌の様子に気づくと足早にベッドに近づき、オーバーテーブルを引き寄せ、そこに彼の上体をもたせ掛けるように両腕をつかせると苦しそうな背中をなだめる様に撫でる。 「大丈夫ですか?静歌さん」 沙都が静歌の背を撫でながら聞いてきた。 状況が状況だけに彼女の高い声は静歌の至近距離から聞こえて、思わず彼は一瞬苦しさも忘れて目を見開き、身体を強張らせる。 「また無理をしたんですね。駄目ですよ、ちゃんと自己管理しないと」 沙都の声色は確かに十代特有の若いものだったが彼女の性格をよく反映して飾り気が無い。 けれど意志の強さを秘めた沙都の真っ直ぐな目や、あどけなくて、屈託が無い微笑が彼女の魅力だと思う。 その朴とつさにこそ静歌は惹かれた。 だからこそ彼女の声は咳で苦しんでいた静歌の鼓動を別の意味で苦しく早めてゆく。 次第に呼吸が落ち着いてきた静歌の様子に安堵した之宮だが今度は気まずそうな表情でボソボソと呟いた。 「悪い…実は沙都さんも一緒に連れてきてたんだ…俺が先に様子を見るからって一階で待っていてもらってた…」 それを言った途端、静歌の周りから刺々しいオーラがいつもの3割り増しで放たれる。 険しい表情へと変わったのを見て沙都は申し訳なさそうに謝った。 「ごめんなさい…苦しそうな静歌さんの様子が聞こえてきたから…思わず来てしまって」 沙都は之宮が言うように律儀な性格なので本当なら大人しく待っていようと思い留まろうとしたが、2階の静歌の部屋からは彼の咳が酷くなる一方な様子が漏れ聞こえて、いてもたってもいられなくなったのだ。 苦しんでいる相手が他の誰でもない、静歌だから。 「何しに来た、目障りだ。早く帰れ」 不機嫌丸出しでそう吐き捨てた静歌に、誰かコイツにお前の為に俺がどれ程血の滲むような思いをしたかを教えてやってくれと隣にいた之宮が天を仰ぐ。 静歌が家で寝込んでいることを知った沙都が、心配して今にも会いたいと思っているのを我慢して自分に様子を見て欲しいと頼みに来た時から、何重にも張り巡らされた緋沙緒の包囲網をかいくぐり、バレたらあの視線の質量で圧死決定なのを覚悟して之宮は彼女をここまで連れて来たのに…。 はっきり言おう、静歌はどツンデレである。 好きな相手程素直になれない。(どうでもいい人間は石ころ以下だから心にも無いことでも平然と言えるのに…。) 「静歌さん、もう大丈夫ですか?」 静歌の言葉に傷ついたり怒ったような様子も無く沙都は聞いたが、それがますます彼を頑なにさせてしまった。 気の強そうな双眸を沙都から逸らして黙り込む。 そんな静歌の態度に沙都は少し困った風に之宮に視線を向ける。 之宮は少しだけ考えを巡らすと、次いで沙都に耳打ちした。 静歌は二人のそんなやりとりが物凄く気になり固唾を呑むが、一度沙都への拒絶を示した為に、彼は素直に二人の様子を伺うことが出来ない。 之宮が沙都に耳打ちした時間はほんの僅かで、直ぐに離れるとそのまま部屋をそそくさと出て行ってしまった。 「静歌さん、いま之宮さんが何か飲み物でも買いに行くからと出て行ったので沙都はもう少しここにいますね」 内心で沙都と之宮がくっついていることが嫌だった静歌は二人が直ぐに離れた事で安堵していたので緊張が解けたように素直に頷く事が出来た。 しかし沙都と二人きりになったことに少なからず喜んでいる静歌の心の内なんて知らない彼女はなぜか部屋を出ようと立ち上がる。 「どこへ行く?」 驚いたように声を上げた静歌に不思議そうに沙都は振り返った。 「下にいます。静歌さんは少し休んでください」 「なぜだ?」 静歌はさっきまでの刺々しい雰囲気から一転してみるみるうちに気落ちしていく。 “ここにいればいい”という言葉を静歌は言おうとして遂に言えなかった。 声に出そうとするとそれを拒むように唇が震える。 ギリッと唇をかみ締めた静歌の様子を見て再び具合が悪くなったのだろうかと心配になった沙都が直ぐに傍に寄ってきた。 「静歌さん、苦しくなったんですか?」 確かに静歌は苦しんでいた。 けれどそれは沙都と出会ってから今までに何度も味わってきた切なさや嫉妬などからやってくるものだ。 ふいに強い力で静歌が手を掴んできたので沙都は目を見開いた。 相変わらず何も言わない静歌は沙都に顔を見られたくないと言う様に俯いたままで、その様子はどこか頼りなく感じられる。 発作持ちの身体な上に、細身で線の細い外見から虚弱体質に思われがちな静歌だが、実は段持ちの男が束でかかってきても負けない程に喧嘩慣れしていて強い。 そんな男がぎゅっと掴んでいるのだから掴まれた手は痛みを感じているはずなのに、沙都は微塵も顔をしかめずにいた。 そして労わるように静歌に微笑みかけたのである。 「静歌さん、今日は残念でしたね」 静歌の手が震えて、掴んでいる力が緩む。 「でも付き合って3ヶ月目のお祝いはいつでも出来ますよ?」 今ここではっきりさせておくとこの二人、既に恋人同士だ。 ついでに言っておくなら過去に付き合って1ヶ月目のお祝いと2ヶ月目のお祝いをしたいと切り出したのは静歌の方である。 この男、ツンデレの上に壮絶な乙メンだった。 なので沙都が言ったように本日は二人が付き合って3ヶ月目の記念日なのだが、静歌は自分が体調を崩して祝えなかった事に素で落ち込んでいた。 しかし山のように高いプライドが邪魔して素直になれずに之宮や沙都に対して突き放すような態度をとり続けていたのである。 彼がこれ程までに落ち込んでいるのには理由がある。 以前の一回目のお祝いも2回目のお祝いも上手くいかなかったからだ。 身体が生まれつき丈夫でない静歌はなるべく自己管理を徹底するよう務めているが、一回目は流行り風邪によって、二回目は季節の変わり目の気温の変化に身体が対応できなかった為に駄目になった。 最近は大学の方が忙しく無理を続けていたので、之宮や周りの人間が心配していたのだが、その矢先に彼は倒れた。 それ程期限の迫っていない課題レポートをなぜか静歌は急ぐように片付けていたのが原因だった。 常に自分中心で、何事も無理のないペースで進められるように自分ではなく周りを調整する事に長けた男が、好きな女が関わると途端に全ての歯車をかみ合わなくさせる。 「なんで来た…わざわざこんな姿…」 「私が静歌さんに会いたいと思う事に理由がいりますか?」 沙都は初期装備のクール素直属性を遺憾なく発揮。 「理由が無ければ、側にいられませんか?」 静かで、無感情な沙都の声色。 なんて落ち着いた声なのだと、それまで散々に切なく辛い思いに慌てふためいていた静歌は自分の滑稽さが身に染みてくる。 心の中の弱さを隠しながら静歌は沙都と目を合わせた。 「上手く行かない事ばかりで嫌にならないのか」 「なぜ?」 沙都の視線が、彼女の全てが、静歌に顔を逸らす事を許さない。 自然、声が擦れた。 「俺は絶対に…沙都さんと離れないと…離れたくないと、思ってる…そのためなら緋沙緒先輩の事も、平気だ……でも沙都さんは…俺は、約束を自分で決めておいて…満足にそれを守れない…そんな…奴だ…だから…」 「私は簡単に諦めるような事に一生懸命になんてなりませんし、駄目だったら忘れる程度の気持ちなら最初から持ちません」 迷いの無い声に逆に静歌は揺れ動く。 「…そんな…」 そんなふうに…。 「…そんな、なんでもないように言わないでくれ…」 お願いだ。 「自分の気持ちに振り回されて、どう振舞っていいかわからなくて悩んでいる俺が馬鹿みたいだ」 「静歌さん」 「俺は、何かを伝えるのが下手で…」 「静歌さん」 「大切な人を喜ばせる方法を知らなくて…」 「………」 「いつも自分勝手に傷ついてばかりだ」 最後の方の語尾が擦れて声にならないまま言い切ると、痛々しく目を閉じた静歌の唇に沙都の唇がそっと重なる。 驚いて目を見開いた静歌の前には彼女の長い睫毛と、温かな温度。 顔に一気に熱が集中するのを感じる。 「わたしは静歌さんがとても好きです」 穏やかに、静かに、はっきりと沙都が告げる。 「…俺も、沙都さんが好きだ」 その途端、ふわりと花がほころぶ様に沙都は笑う。 「静歌さんが傍にいるだけで私はとても嬉しいです」 それだけで貴方は私を十分に喜ばせることが出来ますよ。 「無理に楽しそうな振りをされるよりも私は今のままの静歌さんが好きですから」 誰に言われるよりも甘く、響く。 「…そういえば、静歌さんはいつになったら私のことを呼び捨てにしてくれるんですか?」 何気なく思いついたことを口にしてみた感じの沙都に、静歌も反射的に答えを出す。 「俺にとって、沙都さんは“沙都さん”だ…呼ぶときの響きも好きだし…」 その他にも理由がありそうな口ぶりだったが、静歌は言い渋る。 「…響きのほかには?…なに?静歌さん」 続きを促す沙都に、目を合わせながらでは言えない事なのか静歌は下を向く。 「…時々…君のほうが…大人に見える…」 けれどそういうのは悔しい。 沙都が子供っぽい方がいいという訳ではない。 でも自分の未熟さが歯がゆくなるのだ。 つまらない矜持だとわかっていても。 「実際…本当に沙都さんのほうが、俺よりもずっとしっかりしている…之宮も…周りも…そう思っている…」 「静歌さん」 凛とした声。 「周りが何を言っても、お互いが相手を望んでいて、より深く分かり合いたいと思うならそれでいいじゃないですか。私が慈しんで、大切にしたいと想うのは静歌さんだけですよ」 いつもの、正直で、迷いが無い言葉に静歌はもう一度沙都と視線を結んだ。 「…ごめん、俺は…自分の事ばかりで…本当に、すまない…俺も沙都さんを一番大切にしたいと思ってる…君の大らかさや素直さがとても好きだ…誰よりもそれを君に知っていてもらいたいと思っているのに…」 まだ言葉が終わらないまま、静歌は急に何も言えなくなった。 堪えきれなくなったように沙都がぎゅっと抱き締めてきたからだ。 「…静歌さんはずっとそのままでいてください」 自分の前でだけ、そうやって心の奥の本当の自分を見せてくれる静歌を愛しいと思った。 だから沙都は心から今の言葉を嬉しいと感じる。 「他の誰にも、貴方のそんなところ見せたくない」 合わせた胸から、相手の鼓動が伝わる。 静歌の心臓はせわしなく動いていた。 「教えてください…静歌さんがどれだけ私を大切にしたいのか…」 熱っぽい声が、静歌の耳を撫でるように囁く。 背中に回された沙都の腕がゆっくりと力を込めるのがまるで愛撫のようだった。 堪えきれずに静歌の唇から吐息が漏れる。 すり寄るように頬を寄せれば、熱を持ったように熱い肌。 けれど眼差しがどこか戸惑いを含んでいる。 「…之宮が…戻ってくる…」 飲み物を買いに出かけただけなのだから、そんなに時間はかからないだろう。 沙都の言葉に従いたいが、それが気がかりで踏み込めない。 「…ンッ…」 鼻にかかった声が漏れたのは、静歌の首筋を滑る唇のせいだ。 耳の裏側をくすぐり、耳朶を甘噛むと柔らかい感触は首筋をなぞるように下りて鎖骨の間をきつく吸う。 自分の肌を味わう沙都の顔を覗き見ながら、静歌は彼女の熱っぽい目や、濡れて艶のある唇を疑視した。 焦がれたように自分の肌を見つめてくる彼女の視線に熱くなる。 「之宮さんなら戻ってきませんよ。本当は二人きりにするから静歌さんの事はよろしくって言って帰っていったんです」 上目遣いでこちらを見る沙都が少し笑う。 「それとも、之宮さんが戻ってくれた方が良かったですか?」 どこか困ったような笑み。 静歌は眉を寄せて、苦々しく言い放った。 「良い訳がない…だから…もうそれ以上、他の男の名前を言わないでくれ…」 自分以外の男が沙都の名前を呼ぶのも我慢ならないが、それ以上に彼女の唇から他の男の名前が出ることの方がずっと許し難い。 なめらかな沙都の頬をそっと撫でるように手を添えて静歌が唇を寄せた。 …盛り上がっている場面から遠ざかって申し訳ないが、一方そのころ静歌の家の玄関を出た瞬間の之宮は、幻覚でも見ているのかと思った。 眼前にいたのは極上の笑みを浮かべて佇む緋沙緒。 テラカオス…。 之宮はただひたすら静歌の運の悪さを嘆いた。 そして自分のタイミングの悪さを呪う。 「之宮クン説明してくれるわよね?どうして沙都が静歌クンの家にいるの?」 センパイ目ガ怖イデス…ソノ一睨ミダケデ僕アッサリ逝ッチャウヨ。 「なぜでしょう先輩…貴女に見られているだけだというのに俺は自分の急所を鷲掴まれて今にも握りつぶされてしまうような不思議な感覚を覚えます」 「あら、ごめんなさい。不躾だったかしら?でも今言ったこと現実にしてあげてもいいのよ?」 いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!! 「そそそそそそれよりも先輩はどうしてここに?なんで静歌の家の場所知ってるんですか?」 「沙都の携帯のGPS機能を使ったらここに辿りついたのよ。沙都の行動範囲は逐一チェック済みだけど今日は普段とは違うルートを通ってたから私もう心配で心配で…」 あんた立派なストーカーだよっっ だが之宮はなにも反論を言えない…なぜなら今は微細なミスすら致命的だ。 下手したら彼の今後の男としての人生はこの時をもって終止符を打たれかねない。 (頑張れ俺っ!まだ死ぬには早すぎるっ) 「って言ってる間になに他人の玄関勝手に開けて入っていくんですか先輩ぃぃぃぃ!」 ………ここで証言しておくと之宮は大変頑張りました。 例え緋沙緒が静歌の部屋に着くまでの時間が15秒だったとしてもです。 その短い間に彼は必死で食い止めようとし、緋沙緒から数多の鉄拳を受け、階段の真ん中ほどで力尽きました。 ごめん…静歌…沙都さん…。 心の懺悔を、きっと二人とも許したに違いない。 だって全治2週間の怪我だもん。 敗死した者など目もくれず、緋沙緒は真っ直ぐに部屋を目指す。 だがその足取りがふと一瞬だけ緩んだ。 近づくにつれ、甘ったるい声が耳をかすめる。 『…っ沙都、さんっ…もういい、から…』 『でも静歌さんの…凄いことになってる…』 『…ぁ…構わないから…もう、離し…』 『やめていいの?』 『…………』 『やめたいなら、もうしない』 『まっ…』 “待って!”と言おうとした声は扉が無造作に破壊されかねない程の力で吹き飛ぶように開かれた瞬間に途絶えた。 追いすがる静歌に甘く微笑みながらキスをしようとしていた沙都は突然誰かが押し入ってきた途端に驚いて布団の中に彼が隠れてしまったので出来なかった。 「…沙都…あなたこういう男の子が好みだったの?」 緋沙緒の視線の先には隠れている静歌。 布団の中に引き篭もってしまっているが、ガクガク震えているのが嫌でも判る。 きっと泣いているに違いない。 「………姉さん」 地を這うような声の主は誰あろう沙都である。 「また随分と今までと違ったタイプを選んだわね」 布団で出来た小山が一瞬大きく揺らいだ。 静歌は今までずっと緋沙緒の暗黒伝説を知っているためか、沙都が誰とも付き合ったことなどないと思っていた。それだけに今の言葉は青天の霹靂である。 静歌の驚きを感じ取ったのか、緋沙緒はあっさりと言い切った。 「沙都が今までに一体どれだけの男を袖にしたと思ってるの?両手に両足の指の数でも追いつかないわよ」 「姉さん…っ」 「だって私の妹だもの、当然でしょ」と緋沙緒は何食わぬ顔。 どうやら過去にも静歌のように緋沙緒の包囲網をかいくぐって沙都に告白した男は多いらしい。 普段らしくない、沙都の険のこもった眼差しに緋沙緒は少し思うことが合ったらしい。 「そう、やっと前向きになったのね…なら姉さんも安心よ」 赤い唇を少し上げて妖艶に笑う。 それだけを言うと意外にもあっさりと緋沙緒は部屋を出て行く。 ちなみに鬼の目にも涙なのか、緋沙緒は帰っていく途中で倒れている之宮も一緒に連れていった。 先程までの雰囲気とは別に、今の緋沙緒は真顔のまま静かな声で一人呟く。 「意外だったわ…てっきり初恋の人が忘れられないと思っていたのに…今まで悪い虫が来ないようにしてたけど、邪魔だっだかしら」 沙都の理想の相手は、ずっと初恋の男だとばかり思っていたから緋沙緒はずっと、沙都の好きなタイプは同じだと思い込み、寄ってくる男達がそれに適っていなければ、こと如く排してきた。 闇雲に追い払っていたわけではなかったらしい。 だからこそ、沙都が静歌と真剣に付き合っていると知って簡単に去って行ったのだ。 二人きりに戻った部屋で、おずおずと沙都が静歌を呼んだ。 「静歌さん…静歌さん、誰も何も見てなかったから大丈夫ですよ」 声は漏れ聞こえていたかもしれないけど…とは流石に言えない。 「…………沙都さん」 布団の中から出てきた静歌が暗い声色で沙都を呼ぶ。 「……今の…話が、本当なら…今までに誰かと…つ、きあったこと…」 「ないですよ」 間髪いれずに、静歌の不安を切り捨てるようにはっきりと言い切る。 その瞬間、静歌の瞳には喜色と戸惑いがない交ぜになった。 「全部、断ってきたから」 “断った”という一言に嫌でも安堵する。 どんな奴らが、沙都さんに思いを告げたのだろう…。 そしてどんな思いで、彼女は彼らの気持ちを拒んだのだろう…。 「静歌さん…」 ふと気がつけば、間近に沙都さんの不安そうな顔が合った。 …つまらない矜持なんか、捨てよう。 世界で一番大切な人が、今のままの自分を望んでくれているのだから。 「ずっと側に…俺と…いて」 先程、緋沙緒によって砕かれた甘い雰囲気を取り戻そうとするように静歌は愛しい少女にキスを贈った。 |