08年1月14日アップ








憂鬱な溜息のように鈍く浮かぶ薄暗い雲の間から差し込む陽の光りが、 雨上がりにきらめく王宮の花々を照らす午後だった。

 自分の手よりも幾分大きな手が震えていたのを覚えている。

 僅かに目蓋を伏せた時に見た睫毛の意外な程の長さに胸が甘い思いに満たされた。
 私の手をそっと掴んだその温もりが、彼女の艶のある唇からこぼれる吐息の温度が上がるのと同時に だんだんと熱を持つ。
 隠れるようにして二人、宮殿の柱の影に立ち、誰かに見つからないように息を潜めながら ただお互いの眼差しと吐息と鼓動だけを感じた時間は他人に知られてはいけない秘め事のように 感じられて今も鮮明に記憶に残っている。

 ランとお呼びください…と上ずる声で大好きになっていた彼女に告げた。



金色の



 ブルーリンゲルンの王宮。数百年前に侵略により国がなくなる以前の白亜の城は、 王族の権威復興と同時に博物館となってしまった為、サルリオット大聖堂をそのままに大規模な増築を行い 建てられた新王宮のなかからランは時折晴れた空を見上げる。
 湿度の低いこの国の夏の空のように澄んだ瞳を薄茶の睫毛が縁どり、 同じ色の長い髪はランが動くと優雅に流れた。
 ここ数日この城の主はファーガーンへと赴き不在のままであり、それだけでまるで王宮は 庭の草一本に至るまでが鮮やかさを欠いたかのようだ。
 短い梅雨の時期が訪れて吹き渡る風さえも沈み、晴れた空には何時の間にか暗い雲が静かに伸びて ランの心と同じように彼女の澄んだ瞳に翳りを落とす。
 「……流桜…」
 (胸に穴が開いてしまいそう…)
 もう随分見ていない聞いていない感じていない。
 それだけで体のずっとずっと奥が痛いと感じる。
 好きで放っておかれている訳ではない事はわかっているのに…それなのに、 なぜこんなにも不安なんだろうかとランは、愛しい人の帰ってくるのを心待ちにしながらあまり眠れていない頭で ずっと考えていた。
 最近は眠る事さえも不安だったから。
 頭の中はただもう会いたい、声が聞きたい、触れたいとそればかりだけれど城の主が 不在の今はそんなことは口に出来ない。自分に与えられた役目をこなし、 冷静にいつもの自分を体面だけ保つのが精一杯だった。
 それでも誰もいない束の間の数分にも満たない時間だけはランも自分の 気持ちを抑えられずにポツリと一人ごちる。
 「またそんな顔をしてる」
 他人の気配を背後に感じてランは振り返った。出来る限り平静を装ったが目の前に立つ青年には 通じなかったらしく、少し困ったように微笑まれてしまいランは表情を堅くする。
 「急に話しかけてごめんね。ただ顔色が優れないのが気がかりだったから」
 優しい双眸がランを穏やかに見つめた。
 「今日帰ってくるのでしょう?流桜陛下は」
 その名前を聞いただけでランの頬に赤みがさす。わかりやすい自分を隠す為に懸命に動じない精神を 保つ様にこれまで鍛えてきたはずだったが、流桜の存在はそんなランの努力を揺るがすには十二分なものだった。
 西の大陸ツェナの最西端にある賢者たちの住まう谷ファーガーンへ祭儀の為に流桜が赴いていったのは数日前。

 ファーガーンは世界の柱の娘アティヤが始めて地上に降り立った場所。

 世界の柱であるオリムテイアの庇護する下に静かに産み落とされ人々により保護され愛されながら 育っていったアティヤのお話。
 人間の暮らす土地の周りには森と天上に仕える神であり野の獣の支配と守護を担う巨大な狼の姿をとるスルガルと、 何処よりも澄んだ水をたたえる泉に住む神であるパミアがおり、荒野の野を駆け弓と槍を持つ少年神リオルが 住んでいたという。
 パミアがいたとされるカレステアは知恵の泉と呼ばれ、今も尚賢者たちの塔のなかで湧き続けていると言われている。
 彼らの住まう場所を与えている大地の化身であるシュトリアムは静かな山々の頂上で自分の身の上で起こる様々な 出来事をその場で見ているように感じ、また虹の神ハルムトシアスは人々の地上で起こす蛮行には嘆き、 良き事には喜び、時折姿を表しては人々の暮らしを傍観しながら去っていくのだという。
 空をいついかなる時も支えているオリムテイアは娘の成長をその空の下から正しく見下ろし、今も見守っている。
 人々はアティヤの為に三人の女神を自分たちの土地に迎えいれたり、精霊の一人である深い思慮を もったオーリズを傍において彼女の教育を願った。
 豊作と生活の女神である葡萄色の髪とミルク色の肌の女神イリムはアティヤに器用さと知識を、 貞淑と誠実さの女神アイリスは情緒と理性を、正義と平等の女神シュトルは精神の強さと向上心をそれぞれ教えた。
 そんなアティヤの遊び友達には森の神の土地で暮らす種族であるエルフの若い青年であるヴィンス=ウィリアン。
 アティヤはこの頼もしい友人をヤクシ(守護者)として信頼し、ウィリアンはエルフのなかでもまだほんの 二千歳足らずだったのでアティヤが初めて目にした神であり、また神の赤ん坊がすくすくと育つ様子を まのあたりにし傍にいた年月だけ愛しさを募らせて彼女を自分の伴侶とした。
 のちにエルフ達、精霊たちが遥か世界の果ての楽園へと去っていった時に残された十四冊に及ぶ二人の記録を記した本 …正確には紛失、焼失などして失われた数多くのなかのわずかに残ったものの最初の記録を ファーガーンは補完している。

 古来よりファーガーンはどこよりも神聖で冒しがたい聖域。

 そこへ年に一度、ヒノトリスタ、ジャナスティア、ブルーリンゲルンの国王が祭儀の為に赴く。
 かつて中央の大陸のこの三国が動乱の時代を迎えた時に神々が三人の英雄に力を与えて平和に導き、 以来三国は共に友好的な関係を続け今日に至るのだと伝えられている。
 三英雄は与えられた力を一つは天に、一つは地の底に、一つは地上に残したといわれ、 地上に残された力はファーガーンに納められた。
 流桜がファーガーンへと赴いたのも奉納されたと伝えられる日に三国の国王が集まり、その日を祝う為だ。

 「雨が降る前に、戻られればいいのだけれど」

 ランに声をかけた青年はよどんだ空を見上げながらそう語る。
 確かに雨が降りそうな様子だったが、流桜が今頃こちらに帰るために使っている飛行船は嵐にも 耐えられるものであったので遅れて来ることは決してない。
 「なぜ、雨が降る前なのですか?」
 不思議に思いながらランが青年を見つめると、彼は小さく首を横に降った。
 「僕が心配しているのは空から降る雨じゃなくて貴女の瞳から零れる雨の事だよ… 本当に貴女は愛雨の性質みたいだからね」
 柔らかく微笑む青年の余りの気障な台詞と、ランは流桜を待ちわびる自分の心を見透かされた 恥ずかしさから何も返事が出来なかったが“愛雨の性質”という言葉に内心で首をかしげる。
 ランは節雨の神の加護の月に生まれたのでそのことを揶揄されたのかとも思ったが青年の指している言葉の 意味はどやらそこではないようだった。
 答えを告げようと青年が口を開きかけた時、それよりも先にランの耳に届いた声があった。
 「ラン!ただいま」
 細身の身体に纏う王の衣装の裾飾りは彼女が歩く度にシャラリと豪奢な音を立てる。 どんなときも鮮やかな赤い髪の間から覗く鳶色の瞳は真っ直ぐにランを見ていた。 そしてその歩みは同じく真っ直ぐにランの元へと近づく。
 ただ数日の間、会えないだけで声が聞こえないだけで胸が潰れそうに痛み、 眠れない夜を過ごしたランは流桜の姿を目にしただけで視界が潤むのを感じた。 涙を零すのを堪えているのか、それとも一瞬でも目蓋を閉じるのが惜しいのか、 彼女は唇を震わせながら双眸を大きく見開いたまま微動だに出来ないでいる。
 (胸にあいた風穴が…痛む)
 無意識に両手を胸の前で重ね合わせていたランを流桜は頬を歓喜のためにほの紅く染めながら思い切り抱き締め、 日に焼けていない白い首筋に擦りより、うなじの産毛の感触にうっとりと目を閉じなが らいとおしい人の匂いを感じた。
 「………幸せ」
 囁かれた声があまりにも艶っぽく耳に響いて、ランは流桜以上に顔を紅くする。
 「ラン、凄くドキドキしてる…」
 抱き締め、寄せ合う互いの身体。そこから感じる鼓動の早さに流桜は嬉しそうに表情を崩し、 ランのほうもおずおずと腕を回して抱き締め返す。
 放っておくと何時までもそのままでいそうな雰囲気の二人に、 一緒にいた青年は動じた様子もないまま声をかけた。
 「おかえりなさいませ流桜陛下」
 その声に流桜がランを抱き締めた腕を解き青年に向き直ると彼はゆっくりと一礼し、優雅に微笑む。
 「ファーガーンでの祭儀は滞りなく済みました。私が国を空けているあいだ何事もなく 国の留守をしかと務めてくれて感謝しますテイン」
 「僕が出来る事といったらほんの僅かですよ。姉上がいないとこの王宮は良い意味でも悪い意味でも 静か過ぎて皆口には出さないけれど貴女の帰りをずっと待っていましたよ」
 それだけを言うと国王 流桜のたった一人の弟テインは二人を残してその場を去った。
 何気なく外を見ると空からしとしとと雨が降っている。

 「ようやく甘雨(かんう)が降り始めたみたいだね」

「甘」は、満足する、心地よいという意味を持つ。
王宮には活気が戻り、大切な姉の何より大事な人は涙を零すことなくこの春の雨をきっと二人で眺めているだろう。
不足していたもろもろの事柄が今やっと一つのところに収まってくれた安堵感にテインの胸は満たされて、 その足取りは軽かった。





●閉じる●   ○次へ○    















 
inserted by FC2 system