08年8月6日アップ










 「馬鹿なヒトね」
 幼い声はしかしそれとは逆に相手を叱咤する厳しさを含んでいた。
 混入物のまったくない澄んだ薄紅色の瞳がすがめられる。
 濃密な霧をベールのように纏いつかせた古い塔の天辺にある小さな部屋に一人小さな少女がゆったりと、良くクッションの効いた揺り椅子をギシギシと鳴らしながら、碧空を綺麗に映し出すガラス張りの天蓋を眺めていた。

 「傍にいて欲しいと一言そう言えば、リーズフェルト様は頷いたのに…」

 少女一人の部屋としては持て余してしまう広い室内は沢山の観葉植物と花々とで埋め尽くされており、 そのなかの一際大きな樹木の葉を指で撫でながら話を聞いている弥勒は特に何かを表情に出すでもなく澄ました顔で立っている。
 彼のそんな態度は少女をイラつかせたが、この幼い子供は片方の眉を一瞬だけ跳ね上げただけで表情には出さなかった。
 自分の養い親は本当に臆病で、愚かでしかないと少女は溜息を吐く。
 しかしそんな情けない養い親でも自分の絶対的な敬愛と親愛と尊敬の対象である事実が更にこの少女、美紅音を深い物思いに更けさせるのだ。





金色の





 「美紅音、愛はね相手に請い願って与えられるものじゃない…そんなことをしなくても僕は彼女の事をとても愛しているんだよ。 それだけのものをリーズフェルトは与えてくれているから。
 もしも彼女がこれまで僕に対して愛を感じてきたというならそれは同じ分だけ彼女が僕に愛を与えてきたという証なんだ。 …僕がリーズフェルトを愛している事実は例え生きる道を違えたとしても何ら変わらないんだよ…これまでもこれからもずっと、 そして今よりもずっと彼女を愛している…」

 穏やかな弥勒の声と、淀みなく紡がれる言葉を聞きながら、美紅音の双眸が不安げに揺れる。
 それを見止めた弥勒が薄く微笑みながら小さな養い子の、滝のように真っ直ぐな濃いこげ茶色の髪を撫でた。

 「美紅音は何も失ってなんかいないよ」

 ふるりと何も塗っていなくても濡れたように艶めく柔らなそうな唇がわななく。

 「僕もリーズフェルトも…そしてサラもお前の事が大好きだよ」

 生意気そうに眉を寄せ、美紅音はすがめた眼を、その眼差しを、弥勒から逸らす。

 自分の臆病はきっとこの目の前の、のんびりとした間抜け面の、腰抜けな養い親に似たのだと内心で悪態をつく。
 リーズフェルトに離れていかないでと言いたかったのは他でもない自分自身であったことを美紅音は改めて思い知った。

 高い高い塔の天辺で、クロウェンの巫女と呼ばれ、世界のあらゆる事をこの閉鎖された空間の中でのみ見聞きすることのできる孤独なお姫様はサラの名前が出ると眉を潜めて先ほどまで眺めていた碧空から忌々しそうに視線をそらす。

 「サラの事はどうでもよいのです」

 目蓋の奥で、プラチナの輝きを眩しいくらいに放つ空の覇者の姿が一瞬過ぎる。
 フェアリー・ドラゴンといいサラといい、竜とは皆ああも揃って無口で無愛想な鉄面皮なのだろうか …遺伝子レベルでそういったことが決められているのだとしたら、もしかして表情が乏しいくせに頭の中の考えが悲しいくらい 相手にお見通しなのも生まれつきなのかもしれないと美紅音は思った。
 サラの考えている事が美紅音には手に取るように分かる。
 何を考えているのかわかないとよく塔の住人達が口を揃えて言うが、美紅音にはそんなことを言う者達のほうが理解し難い。
 しかし美紅音のそんな考えは、サラが美紅音の前でだけ感情の起伏を見せるからであってあながち周囲の意見は間違いではないのだけれど。
 思考が一瞬サラの事に囚われてしまい、はっと美紅音は我にかえって数度首を振ると真っ直ぐに弥勒を見据えた。

 「地の底の女王…それともあの火の守護者が弥勒様とリーズフェルト様の仲を裂いたの?」

 それを聞いた途端に目の前の養い親は堪えきれずに吹き出す。そこまでで動きを止めておけば美紅音の機嫌も平行線のままでいられたものを、この青年は更に肩を震わせて次第に屈みこみ、ひっひっと笑いを噛み殺すのだ。

 「疑り深いなぁ美紅音は」

 「でなければなぜ貴方はリーズフェルト様から離れてゆくのです?彼女は今でも貴方を愛しているし、貴方も彼女の事を愛しているのに」

 美紅音の薄紅色の双眸が燃える様に光りをたぎらせ、同時にこの少女の気性を表すかのように瞳の奥の冷ややかな感情がその瞬く光を凍てつかせ、薔薇色の頬や、ふっくらと柔らかな唇までも血の通わぬ人形のように無機質なものに見せる。

 「何の為に?誰の為に貴方はリーズフェルト様を失うのです?キサラやレアラの為なのだとしたら私は絶対に…」

 「…美紅音」

 上質な鈴の音のような声を遮るように弥勒は小さく呟くと高い空を見上げた。

 「ようやくここへ来る決心をしたみたいだよ、君のサラが」

 巨大な翼のはためく風の音がみるみるうちに近づいてくる。
 吹き抜けになっている天蓋の真上に辿りついたプラチナ・ドラゴンがバサバサと翼を大きく揺らしながらその身を発光させ、淡く輝いてゆく。
 すると竜の全身が細かい光りの粒子を放ちながら徐々にその姿を消失させていき、粒子は美紅音と弥勒のいる塔の方へと集まってゆき、 光りはそのうち人の姿を形作りだした。
 いつしかそれは黒味がかった銀の髪と月明かりの夜空のような深い蒼の瞳の女性の姿へと変わり、 その透けるように白い肌の周りが白金色の光りの粒でいっそう艶かしく見る者の目に映る。
 しかし人の姿をとった筈のサラはまるで人の目を避けるように部屋の周りを彩る木々や花々の間へと隠れてしまった。

 「サラ?」

 怪訝に思った美紅音が身をちぢ込ませるようにして息すらも潜めているサラに声をかける。小さな足が一歩、近づこうと進み出た時、「すまない」と小さな声が聞こえた。

 「すまない…美紅音…俺は美紅音の意にそぐわない行いをしてしまった…」

 声はかすかに震えており、まるで泣きそうな色で美紅音の元へと届く。
 顔を俯けて、まるで萎れてしまいそうな花のようにうな垂れるサラに美紅音は地を這うような…そう、まるでこの位の年頃の少女が発するような類の物ではない低い声で言い放った。

 「そんな泣き言を言いにわざわざ来たの?」

 弥勒によって下降してしまった美紅音のご機嫌が輪をかけて下がる。
 冷ややかな眼差しを受けてサラの肩がビクリと音を立てるほどに揺れた。
 恐る恐る視線を美紅音の方へと向けたサラは、それでも愛しい少女の姿を見ただけで胸に温かい想いが湧き上がるのを感じる。

 何時まで経とうとサラは美紅音とこうして視線を合わすことに慣れない。

 大切な相手とは視線から結んだ恋だった。
 何度もあわせた筈のその瞳が突然特別な存在になって感じるほどにこの恋を自覚した時には既に想いはとても深くいとおしいものであった。
 恋は視線から声へ、声から指先へ繋がって、唇に届いた頃には互いのバランスを揺らし始めて、考えるよりも先に自分の全てが相手に向かってゆく。

 好き…。

 貴方が好き。

 何度も何度も伝えれば、同じくらい返してくれる存在が愛しくて、声には出さない心の内だけで甘えた声でもっと聞きたいのだとねだる自分を笑ってしまう。

 恋は…唇からもう一度指先へ戻り、やがて互いの肌に移行すると、心には小さな一つの棘が生まれた。  俺を見ていて、と。
 他の者に心を移さないで、と。
 小さなはずの棘は、ふいにドキリとするほど鋭い痛みを呼び起こして、ズキズキするそこを両手でそっと押える時が少しずつ増えていった。

 ただ愛している人と一緒にいる時の、彼女の瞳に映る自分を思う。

 あのどんな輝きより惹かれる双眸に映る自分を見る。

 俺のこと好き?とは口が裂けても言えなかった…だた、恐ろしくて。

 だから彼女がいない時間にそっと囁く。

 大好きな人と過ごす時間は何よりも大切なはずなのに今彼女に近づく事すら出来ずにいる自分が酷く情けなく思う。

 腕から手にかけてまだ生々しく残るフェアリー・ドラゴンに付けられた火傷の傷が癒えきらないまま残っていることがサラの心を苛んだ。

 神域にある存在にとって肉体は心の鏡である。
 リーズフェルトによって癒しきれなかったこの傷痕はサラ自身の心の痛みそのものをあらわす。

 昂ぶる感情にまかせてフェアリー・ドラゴンと争い、敗北した瞬間にサラの胸中に去来したのは、ただ美紅音を失うかもしれないという悲しみと痛みだけだった。
 自分の全てを失くしてしまうかもしれないという絶望。

 はっきりと残った火傷の痕。

 その傷をサラはしばらく瞬きもせずに見つめていた。

 この傷が癒えなければ、美紅音の前に堂々と立つことは出来ない。
 こんな綺麗な自分でないままではとても傍にはいられないのだと醜く残った火傷を見て思う。
 もしも傷を見られたら…。

 もう触れてもらえないかもしれない。

 愛してもらえないかもしれない。

 小さな棘がチクリと痛んだ。

 ちっぽけな自分の中にあるちっぽけな棘が、どうしてこんなに痛むのだろうか。

 醜くなった手で、そっと痛むそこを押えた。
 それと同時にこの部屋の中へと塔の住人達が足を踏み入れた。
 美紅音の世話係としてこの塔に住まう人間は全て女性であり、いつもは壮年の者達がよく訪れていたが今回は若い年齢の者達ばかりが顔を揃えている。
 隠れていたサラは今では完全に気配を消して気づかれないように木の間に潜んでいた。
 そして何時の間にいなくなったのか、弥勒の姿も風のように消え去っている。
 美紅音の追求から逃げ出したのだろう、それを思うと幾千にも幾万にも心の内で彼に対する悪態をついてしまう。

 「何用です」

 静かな声で問うと、一人が礼をとりながら口を開いた。

 「ソルメキアとの境であの竜が飛行船を襲ったそうでございます。フェアリー・ドラゴンとも争い、その際には “無比の炎”が空を歪めたとか…本来この様な事態こそを嫌う聡明な種族であるはずの竜が悪戯に地上を騒ぎ立てるなど」

 抑揚も無く、とつとつと静かに語るが、その言葉には明らかにサラに対する嫌悪の情が混じる。その証拠に、女の眉間に僅かに皺が寄っていた。

 「あのように凄まじい破壊衝動をもつ竜が巫女様の傍近くにいては…貴方様に穢れが及んでしまいましょう」

 「誰が穢れであると?」

 「クロウェンの巫女?」

 滝のように長く艶やかに流れる髪の間から覗く薄紅色の双眸は、平時であるならこのように晴れた日の日差しを浴びて暖かく穏やかな光をたたえているはずだったが、この時の美紅音の瞳は星一つない夜よりも尚暗く、そして鋭い。

 「無粋な…この塔の中にいて私に見えぬことがあると思って態々そのような事を言う為だけに来たのか」

 「く、クロウェンの巫女様…いいえ…ですが、わたくしは万が一にも貴方様に何かあってはと思い…」

 「お前達こそ、その汚れた気でこの場所を侵すつもりか。分をわきまえなさい」

 「…はい」

 「下がれ」

 これ以上の会話は不要であると言外にいい放つ美紅音に従い、侍女達はすごすごと部屋を退散する。落胆の色を隠せない女性達の背中を見つめながら美紅音は小さく溜息を吐いた。

 人は自らの理解の及ばないものを拒む。
 どのようにその目に、心に、見えなくとも、映らなくとも確かにそこに存在するはずのものを容易く歪め、穢す。

 竜の崇高さばかりを求めてサラ自身を認めようとはしない。

 そして人は美紅音のクロウェンの巫女としての存在のみを映し、その異質さに目を背けている。

 本当は今こうして生きているはずのない存在。

 地の底の女王の迎えを拒み、枷でしかないクロウェンの巫女としての立場を受け入れ、塔の天辺のこの場所から一歩として外へとは出られない身となっても…。

 なぜ生きることに執着してしまったのか。

 死を目の前にして一筋の希望に縋りついたのはなぜなのか。

 「美紅音?」

 離れたところからそっと名を呼ばれる。
 労わるように、いとしむように美紅音の名を呼ぶ。
 ただ大切な貴方が心配なのだとその蒼い瞳が語った。

 他に何を失くしても、生きていたいと望んだ。

 「美紅音は何も失くしてない」

 先ほどの養い親と同じ事をサラは紡ぎ、微笑む。

 「だって貴女の傍には俺がいる」

 僅かな表情の動きだけなのに、サラの微笑が美紅音の目にあどけなく映る。
 例えばこんな時のサラの瑞々しい頬や、長い睫毛が空気にふわりと揺れる程の長さが、薄いけれど艶のある唇から除く歯の白さが美紅音の薄紅色の瞳にはっきりとした輪郭を持って映る。

 「サラは美しい」

 賛美の言葉を告げる美紅音の声はしかし抑揚が無く、感情を抑えていることがわかる。

 「…本当に」

 美紅音は希望に縋りついた自分を後悔はしていない。
 少なくとも誰かを愛するということができた。
 生きることで誰かに愛されることができた。

 まだ年若い少女の顔から、幼さがそぎ落とされてゆく過程は、サラにとっては悲しむべき事らしく、浮かべていた微笑から徐々に残念そうに眉が下がり、目尻が泣きそうにほそまると、今度は笑んでいた唇をかみ締めて下唇に皺が寄る。

 「美紅音はどうしてそんな顔をするの」

 サラが期待したのは美紅音のこんな表情ではなかったようだ。
 濃い蒼の双眸が傷ついたように揺れるのを見つめながら美紅音は小さく溜息を漏らす。
 小さな少女のその仕草はサラの心の内を嵐のように掻き乱したが、頑ななまでに葉陰の中から出てこようとはしなかった。

 「本当にサラは愚かなのだから…」

 たった一つ大切な存在…その相手が刻んだ痕なのだから、万が一傷痕が永遠に残るものだとしても、美紅音のなかのサラという恋人に対する気持ちを下げる理由にはならないというのに。

 手に残るその傷跡すら愛しいと言わなければ、わからないのだろうか。

 愛している。
 それは胸の奥をぎゅっと締め付ける。
 訳も無く泣きたくさせる。
 心が何処にあるのかを思い知らせる。
 どうすればいいのか…わからなくて、途方にくれてしまいそうになる。
 だから美紅音はこの思いが自分ひとりではどうしようもできないことをよく知っていた。

 サラはそのことに気づかない。

 弥勒はそのことを知りながら、それでも孤独を受け入れてゆく。

 「…愚かな神もいたものだわ」

 その行き場のない想いの出口はリーズフェルトへと繋がっている事を一番よく知っているのは弥勒自身だというのに。

 「こちらにいらっしゃい、サラ」

 薄紅色の双眸が日の光りを受けて優しい温かみを帯びる。
 少女らしい柔らかな手が、傷ついた恋人へと伸ばされた。





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