09年7月4日アップ










  ヒノトリスタ第3王子セキレイは生まれつき体が弱い。
 魔法国家といわれるヒノトリスタにおいて、秀でた魔力を持つ他二人の兄達に比べても非常に高いレベルの魔法を操れるが、いかんせんその代償であるかのように体調が崩れやすく、流行り病にかかりやすい。

 抜きん出た魔力を有しながら身体の弱い者は騎士団への入団は出来ないので、ほとんどが神殿に仕える身となる。

 フィアゼイル神殿で神官の位を授与したのもセキレイのことを考慮してのことだった。

 そんなセキレイを世話していたのがお付武官の響 更紗であったが、彼は今織姫の要請でフェイルン大陸に行っている為不在である。
 日頃から兄のように慕っている響がいないのでセキレイは寂しさを紛らわせる為に自分のお気に入りの場所へと足を伸ばしていた。





金色の





 ヒノトリスタの王宮の中には直系の王族でもごく限られた者だけが入ることを許された地下の宝物庫がある。
 セキレイは何重にも施された呪いを解いて宝物庫の最奥まで到達すると重厚な紫のカーテンが幾重にもなびくその部屋の赤と灰色で構成された幾何学模様の床を進み、染み一つない純白の壁に飾られている一つの杖の前で立ち止まった。
 それは人一人分程の長さの錫杖で神聖銀によって造られており、頭部には左右3対の金輪をはめ、石突きはオリハルコンで出来ている。そして体幹部には守護石を散りばめている大変精緻な神々しいもので、ヒノトリスタ王家に嫁いだクロウェンの血を持つ王妃の所持していた物だという言い伝えがあった。

 セキレイ王子は直系の王族男子の証であるオッド・アイ…左は明るいオレンジ、右は澄んだグリーンの双眸を優しく細めると、まだ青年らしい柔らかさを残す指先をそっと錫杖へ伸ばす。

 「ユエリハーツ」

 その錫杖に触れたセキレイの手を包み込むように、幻のような希薄な輪郭ではあったが、ひとつのたおやかな白い手が重なった。

 『セキレイ王子』

 錫杖から現れたのはクロウェンの血筋をよく表す薄紅色の双眸に焦げ茶色の艶のある髪を長く伸ばした女性である。
 その容姿はやはりトゥ・リアラやクロウェンの巫女である美紅音の面影を強く滲ませていた。
 『貴方を呼んでしまってごめんなさい。地上の光りの届かないこの場所で独り、私は永い時を過ごしてきましたが、貴方が私を見つけてくれた時からこうしてお話できる時間が唯一の心の癒しとなりました』

 薄紅色の双眸を僅かに伏せ、形の良い眉を寄せたユエリハーツは、たとえ憂いの表情であっても息を飲むほどに美しい。

 「いいえ、遥かな昔にこの国の王妃であった方が貴方のように美しく、清らかで、お優しい女性であることを私は嬉しく思っています。ユエリハーツに会えることは私にとっても大切な時間です」

 兄であるレアトリアスのような精悍で涼やかなものとは違い、甘やかで優しいセキレイの真っ直ぐな眼差しと、迷いのない声にユエリハーツは微笑する。

 『セキレイ王子、最近の地上の様子はどうですか?』

 「西の大陸では獣達による被害が相次いでいます。この状況に、フェイルンのアランガイル王は騎士団による警備を強化している様子…あちらの大陸は旧アガタダルタの頃にコルツァーヌ帝国が斃れてから次の権力争いによる潰し合いの末に大陸は荒れに荒れ、武力・国益ともに衰え激しく現在では辛うじてアランガイル王が支えておられる」

中央の大陸ソルメキアは200年前に東大陸アガタダルタの帝国コルツァーヌからの侵略によりヒノトリスタが崩壊したのを切っ掛けとして次第に他二つの大国ジャナスティアとブルーリンゲルンも低迷の時期を迎え、帝国コルツァーヌの支配下に置かれた。

 それにより3国は国家ではなくコルツァーヌの支配領地となり、王族だった者たちはその地位を退いて領主として自分たちの土地に住む人々の暮らしを守るために帝国への忠誠を誓う事で無益な血を流す事を避けることを選んだ。

 ヒノトリスタ、ジャナスティア、ブルーリンゲルンは州としてその名が残り、それぞれをコルツァーヌ帝国より王族にはあてはまらないが血縁関係にあたる者が公爵として州を治め、戦いに敗れ生き残った3国の王族の者たちの中から侯爵位を与えて大領主とした。

 貴族だった者たちは辛うじてその地位を保ち伯爵位や子爵位を捨てずにいる者や没落していく者と様々で、コルツァーヌ帝国の人々が州に仕事や土地を求めてやってくると益々立場が無くなり男爵位や准貴族であった者たちの中にはその地位を放棄するものが殆どであったという。

 しかしコルツァーヌ帝国が瞬く間に滅亡し、東の大陸はアガタダルタという名からフェイルンという名に変わり、それに伴ってそれまで支配下に置かれていた属国は解放され、ソルメキア大陸ではこれまで平和な治世をしいてきた元王族の人間の中から王権を復活させる動きがありヒノトリスタ、ジャナスティア、ブルーリンゲルンは再び国として大陸の地図に名を記したのである。

 ようやく手にした平和はまだ15年。

 淡く輝くセキレイの金の髪の奥でオッド・アイが翳る。
 悲しげなその表情を見たユエリハーツはその白い御手を伸ばし、彼の頬を包み込んで秀麗な額に一つキスを送った。
 すると温かな慰めの温度に少なからず気持ちを上向かせたセキレイは小さく笑いながらユエリハーツと別れて宝物庫を出てゆく。
 地下から地上へと移ると眩しいほどの太陽の光りと、花の都と謳われるヒノトリスタの美しい景色が目に入り、セキレイは気の遠くなるほどの歳月をあの薄暗い宝物庫でたった一人の待ち人に会う為に眠っていたユエリハーツを思い、胸が痛んだ。

 「セキレイ様」

 侍女が少し息を切らしながら今までずっと探していたのだという風体で近づいてきた。

 「お探ししておりました、実は先ほどジャナスティアの国王陛下がお出でになっておりまして、是非セキレイ殿下にお会いしたいとのことでございます」

 「ジャナスティアの…カヤト陛下が?」

 身分を越えて仲の良い織姫が現在は不在でいない為に自分に声がかかったのだろうと思って、セキレイはカヤトの待つ本殿へと足を進める。
 門を幾つもくぐった先の、本殿のなかでも少し離れた場所にある一室は、来賓の中でも最も身分の高い者だけしか通すことが無い。
 その部屋の扉を開けると、そこには時間さえ停止しているかのような錯覚を起こすほどの静寂に身を包み、じっと来賓用のソファに優雅に座っているジャナスティアの“冬の月”と称される美丈夫がおり、常に従う枯葉は彼の後で無言のまま佇んでいた。
 淡い茶の髪はゆるく後でまとめただけで、無造作に背中を流れる。
 服装も国王という地位に対して簡素極まりなく、騎士団が着用するような丈夫な生地の長衣とその下に厚手のズボンと皮のブーツ。
 キラキラしい装飾の類は一切無く、唯一身に着けているのはウェンスタイ家を継いだ時から持つブローチだけであるが、それでも尚この国王陛下は言葉を忘れるほどに圧倒的で壮絶なまでの存在感を持っている。
 青年の域にある容姿はまだ成熟した男性としての成長の兆しをまったく見せてはおらず繊細なものを多く含むが、か弱さは微塵も無い。

 相変わらず触れれば切れそうな鋭さだなとセキレイは胸の内で一人ごちた。

 例えるなら名匠が打った一振りの刀のようだ。

 カヤトはセキレイにとって父や兄達とは又別に尊敬に値する人物である。

 長兄のレアトリアスのお付武官である織姫は、カヤトがまだウェンスタイ家当主の頃からの旧知の仲であった。
 今でも身分の違いを超えて親交があるので頻繁にとまではいかないが、それでもヒノトリスタにカヤトが年に数回訪れている際には必ず織姫と会う。
 セキレイも幾度かその会話に混じってカヤトと話をしたことがある。
 ジャナスティア国王であるカヤトはどのような事があっても、どんな判断を下す時でも、誰を相手にしている時であろうと常に表情を崩さず、その双眸は僅かにも感情の起伏を見せる事がない。
 彼のそのような態度がやがて凍てつく冬の空の上、星一つない夜の静謐のなかでたった一つ孤高に、遥か高みへと昇っている月のようであると人々に囁かれるようになった。

 どれだけ心惹かれようと、決して手の届かない存在。

 カヤトの黒い双眸が、陽だまりのなかにあっても光りを映す事の無いように、彼の傍にどれ程近づこうと、その心に誰かが映ることなどないのだと。

 だからセキレイにとってカヤトは尊敬するが同じ場所には立つ事の出来ない遥か遠い存在に思えていた。
 「お待たせいたしましたカヤト陛下…せっかくいらしてくださったのにお時間をとらせた非礼をお詫びいたします」
 一分のソツも無く礼儀にかなった仕草でセキレイが頭をたれるとカヤトは流れるような動きでその眼差しを向ける。
 相変わらず深い黒の瞳にはどんな感情も見て取れない。

 「身体は大丈夫なのか?」

 「え?」

 「顔色が優れない…休まなくていいのか?」

 こんなことを言われるとは思っても見なかったセキレイのオッド・アイが驚きに見開かれて、その唇が返事を紡げないままだったが、カヤトは別段気にした様子も無くただじっと黒い瞳でみつめている。
 ソルメキア大陸の3国が国として復興してからまだ日が浅く、カヤトは国王となってまだ5年と在位年数短い。一番長いヒノトリスタでさえもアツィヤフレオの在位年数は15年である。
 ジャナスティアがまだ州であった時、王となる前のカヤトはウェンスタイ家の幼い当主として枯葉と共にヒノトリスタに招かれる事が度々あった。
 5歳であったセキレイは幼心に、8つ年上のカヤトが凛然と父であるアツィヤフレオに話しかける姿を見て憧憬を深め、そして政治にも軍事にも優れ、自身も比類ない強さを持つカヤトに対し病弱な自分を嘆いていたのだった。

 「平気です。今日は織姫がいなくて申し訳ありません…彼に会いに来たのでしょう?」

 セキレイはオッド・アイを伏し目がちに細めたので、その時カヤトの表情が僅かに曇ったのを見逃す。
 ヒノトリスタ国務大臣の嫡子である織姫、ジャナスティア現国王カヤト、ブルーリンゲルン国の王弟テインは年齢も近く古くから親交のある3国であったので今でも友人同士である。(厳密には悪友)
 ヒノトリスタにカヤトが訪れている時は常に織姫が相手をしていた。
 彼らが身分を越えて友情を育んでいる事を遠くで眺めながら、セキレイは孤独を深めるだけで、傍に響 更紗がいてくれなかったらきっと寂しさに死んでいたと思うほどに彼らを羨んでいた。
 自らの思いに溺れてしまいそうになるセキレイの双眸が暗く翳ったのを見てカヤトは涼しげなのを通り越していっそ鋭い目尻を更にきつく細める。

 「ここへ来たのはお前に会う為だ」

 「えっ」

 本心から意外な発言だった為、セキレイは子供のように吃驚した表情を素直に出す。
 自覚せず、その耳が僅かに染まった。

 いま、この方はなんと言ったのだろう。

 「僕に?」

 セキレイは極親しい人の前でのみ「僕」と呼ぶ。しかしこの時は驚きが余りに大きかったからか思わず口に出た。
 カヤトの双眸は鋭いが、思えば遠くからしか眺める事が出来なかった時に見せていたどこか人を寄せ付けないあの刺々しさがない。
 むしろ彼がセキレイを気に掛けていると言った通り、どこか気遣わしげだ。
 織姫あたりに言わせればそれは恋する男の目ということになるのだろうが、生憎セキレイはカヤトに対する畏怖の念が強すぎてそこまで推し量る余裕が無い。

 ふらりとセキレイの身体が揺らいだ。

 気が動転したのだろうかと思ったが、そういえばカヤトに言われたように今朝から余り体調が良くなかったことを思い出す。

 客人の前で無様な姿を曝すことは出来ないとセキレイは崩れそうになる膝を叱咤するが顔色の悪さは隠しようも無いほど見る間に悪化していた。
 鉛のように身体が重い。
 意識が暗く沈もうとした時、しっかりと肩を支える強い力を感じて辛うじて失神などという失態を曝さずにすんだセキレイはうっすらと目を開けて目の前にカヤトがいる事に身体を強張らせた。

 「す、みませんっ」

 「いい、気にするな…それよりも少し休め」

 カヤトの言葉はこのまま自分が介抱するという意味に聞こえセキレイは更に居たたまれない気持ちになる。
 たくましいのとは違う、けれど確かに引き締まったカヤトの腕は17歳の男の自分を支えてもまったく支障が無いほどに鍛えられているのが余裕の表情でわかり、益々セキレイは情けなくなった。
 この方は国王で、年上で、一人の騎士で、けれど自分と同じ男だ。
 身も心も強く、才に溢れ、人々を導く。
 それに引き換え自分は、非力で、この王宮からの世界しか知らない。

 「そのようなわけにはいきませ、ん」

 セキレイの中の矜持が絶対に従えないとカヤトの言葉を拒む。
 この方にとって自分は未熟で、まだ子供で、頼りない存在なのだとしてもセキレイは彼の想像のままの自分でいることが我慢ならなかった。
 しかし肩を抱くカヤトの腕は微塵もその力を緩めない。

 「お前は無理をし過ぎだ…魔力が強い者は本来ならもっと静かに過ごさなければならないのにお前は魔法院や神殿の祭事に関わって身体を休めていないだろう」

 なぜ知っているのだろうかとセキレイの色違いの双眸が見開かれる。

 「祭事に関わるのは…私に出来る数少ない事ですから」
 額に滲んだ汗がセキレイの秀麗な頬へと伝う。
 冷たい温度の指がそれをそっと拭った。
 それがカヤトのものだと気づくまで数秒を要し、そして気づいてからは心が乱れた。
 視線が合い、黒い瞳に移る自分を見て初めて心配されているのだとわかり、どうしようもなく胸の中が頼りないもので一杯になる。

 「陛下」

 朦朧とするセキレイの耳に辛うじて低い声が聞こえた。
 それまでじっとカヤトの後に控えていた枯葉のものだ。
 「陛下、そろそろ雨が降り始めます」
 枯葉は鴉の濡れ羽のように艶やかな黒髪の間から覗く、同じく黒曜の様な瞳を窓へと向けて静かに告げる。
 冷たい風が硝子を叩く音がした。
 あれだけ美しく晴れ渡っていたはずの空が今はうねる様な曇天へと姿を変えている。

 「もうすぐやって来るな」

 恐ろしく威圧感に満ちた声が自分のすぐ近くで聞こえてセキレイは一瞬誰のものかわからなかったが確かにそれはカヤトのものだった。
 はっと彼のほうを見つめれば、冬の月と人々から謳われる孤高の王がいる。
 雨音に包まれ始めた空は、カヤトの姿を冷たい輪郭で覆い隠し、セキレイの頬に触れる指先の温度さえも一層冷たくさせた。
 目の前にいるカヤトこそが自分の知る彼だったとセキレイは思う。
 肌を底知れなく昏い恐怖が這うような感覚がしてセキレイの意識は途切れそうになる。
 魔力の高い者ほど感覚が鋭敏に出来ているが、身体の奥底から溢れ出す様な不安はセキレイの心を可哀想なほど乱れさせ、我知らずその双眸はせわしなくさ迷い、唇は乾ききって震えているのに全身から脂汗を滲ませた。

 迫り来る純粋な死の恐怖に怯えて必死に自分の胸の上を掻き抱く彼の手にそっと覆いかぶさるようにもう一つの手が重なる。

 「お前は何も心配しなくていい…」

 「陛…下?」

 静かで、穏やかで、包み込むような声が染みこむ様にセキレイの胸に響く。
 自分が畏怖し続けていた人がこんなにも優しい声をしていた事を知って一瞬だけ恐怖を忘れて感動してしまう。
 窓から覗く空は生き物のように真っ黒な雲が絡み、いくつものとぐろを巻く蛇のように映る。雨は激しさを増し、叩きつけるように降り注いだ。
 「陛下…へい、か…恐ろしい…死が…」

 「セキレイ、恐れるな。俺が傍にいる」

 「怖い…死が迫る…僕に…僕を迎えに…」

 「恐れるな…お前をどこへも行かせはしない」

 「陛下…陛下…陛下…助けてください…死がこの身を委ねろと僕に迫る…」

 セキレイの手が汗を滲ませたままカヤトの手を力任せに掴むとそれ以上に力強い力で握り返す手がある。
 「いやです…僕はまだ…死にたくない…」
 ここにいたいっ
 咽が潰れんばかりに叫んだセキレイの頬を涙が一筋伝い落ちた。

 「どこへもいかせない」

 セキレイの目の前に微かに笑う冬の月がいる。
 透明な空気のように澄んで、ただ静謐の中に佇む月が照らす光りのようにカヤトの微笑は仄かに温かみを帯びてセキレイに向けられた。
 握り返す手の強さがしっかりとセキレイの心を繋ぎ止める。

 「カヤト、もう時間です」

 黙していた枯葉が音も立てずに二人の前に立つ。
 太陽の光りがまったく届かない世界はまるで夜よりも暗く、雨の降る音だけが異様なほど耳に響く。
 枯葉は一度目を閉じ、次にその双眸を見開いた瞬間に彼の身体を覆っていた封印布と呼ばれるものが千切れ飛び、右半身に黄金色の輝きを放ちながら文字が浮かび上がった。
 人には異能の力。
 枯葉の身体に浮かぶ文字はサーリーグルと呼ばれる。
 それはそのまま枯葉のように過去・現在・未来を視る異能の者達を呼ぶ名となっていた。
 『屍殺し』と仇名されるジャナスティア最強の戦士の薄い唇から力ある言葉が発せられる。

 「魂を楔から解き放つものよ
 安寧の繭を守護する紅き夜の使者よ
 矢の如き時と雨の如き定めを知るものよ
 水面を乱す風の如く我は汝に抗うものなり
 正しき糸車の糸から過ちを紡ぐものなり
 我が身に刻むは罪名
 この名とこの身とこの血をもって我は汝に仇なす剣となる

 この声をもって我は汝の死の帳(とばり)を切り裂くものなり」

 その瞬間、世界が鳴動した。
 烈火の如き怒りが波動となり疾風の如くあらゆるものを呑み込む。
 一滴の雨が落ちた瞬間のように小さな気配がセキレイ達のいる部屋に入り込んだ。
 しかしそれは次には三人を丸呑みにし、天井も床もない虚無の空間へと変える程の圧倒的な力を有する存在へと変貌する。

 漆黒の闇のなか、蒼き瞬きを閃かして舞う蝶のように艶やかな姿。
 その煌きは魂を導く篝火のように美しい。

 死を運ぶ美しき女王。

 「…キサラ様…」

 枯葉の表情が苦しげに歪む。
 「このような形で再びお会いしようとは…」
 地の底を支配する気高き女王は枯葉を一瞥すると、彼が守るようにして立つその後ろにいるセキレイを見た。
 「そこな人の子よ…そなたに永久の安寧を与えに参った…さぁ…おいでなさい」
 強く、揺るぎのない瞳。
 その眼差しをセキレイは遥かな昔に見た気がした。
 キサラの虫一匹殺した事など無いような、柔らかくたおやかな手がセキレイに向かって伸びようとしたとき、カヤトが凛然と立ちはだかる。

 「去れ。セキレイは渡さん」

 その途端、長く伸ばした薄茶色の髪から覗く琥珀の双眸に苦渋が滲んだ。
 まるで一滴の墨水をたらした清水のように。
 紅など引かずとも、十分に赤みを帯びて艶のある唇が、まるで呪いの様にある言葉を吐く。

 「…神殺しの血を持つ者」

 その言葉にカヤトは一層鋭い気を発した。

 「枯葉、そなたは今もウェンスタイ家の血を想うか…サーリーグルの宿業ゆえに逃れなれぬ罪を負うたそなたを憐れと思うて縛せずにおったが、わしの邪魔をするというなら今ここで無限地獄へと送ろうぞ」

 「キサラ様…私はカヤトに従うだけです…この身の全ては今も昔も変わらずにウェンスタイの血を継ぐ者だけに捧げております」

 「よう言うた…ならば定めの輪から外れし者よ、そなたに永久の罪苦を与えん…わしの元で闇よりも深き眠りに就くがよい」

 十指の爪が紅いに染まり、それは鈍く輝いた。
女王の長い髪が流水のように背を滑る。
静寂を纏いながら、そのくせ恐ろしく激しい闘志がキサラの身の内から発せられて、それはまるで狩るべき獲物を決して逃さぬ獰猛な獣のようだった。

 その姿にカヤトの後ろに庇われていたセキレイはただ震え上がった。

 「人の子よ…わしが恐ろしいか?したが死とは命あるもの全てに降り立つもの。まだ幼きそなたがわしを恐れるならそれでよい…無垢な魂にわしの腕は冷たすぎようからの…」

 空気が動き、死の刃が閃こうとした瞬間にある声が響き渡った。

 ――――――駄目よっセキレイを連れて行かないでっ――――――

 その声に聞き覚えがある気がしてキサラは動きを止める。

 「トゥ・リアラか?…いや、クロウェンの血の者の声か…これほどの干渉を行なうとは…」

 神の生み出す空間に声を送り込むことは並大抵ではない。

 「ユエリハーツ…」

 「知っているのか?」

 恐怖に怯えていたセキレイが声の主の名前を口に出すとカヤトは視線はキサラから外さないまま問うた。

 「私の遠い祖先で…地下の宝物庫に保管されている錫杖の持ち主だった…現在は思念体です」

 苦しげに何とかそれだけをセキレイが呟いた瞬間、キサラの創り上げた空間に亀裂が生じ、次第に崩壊を始める。

 「これはっ…この力は…クロウェンの者だけではない…兄上…弥勒兄上かっ」

 結界を強引に破られたキサラはその衝撃を身の内に受け、苦悶の表情を浮かべながら叫ぶ。その美しい額からは皮膚が裂け、血が流れ落ちていた。

 「キサラ様っ」

 その様子を見た枯葉が、この場が崩壊して行く不安定な空間であることも構わずに彼女の元へと駆け寄ろうとし、歪みによって生じた衝撃波に弾かれて腕に裂傷を負う。

 「枯葉…」

 キサラの琥珀色の双眸がほんの僅かの時間、いとおしげに枯葉を見つめる。

 「枯葉よ…わがいとし子よ…そなたの視たものをこのわしに話してごらん」

 「…私が視たのは、セキレイ殿下の御魂をキサラ様が迎えに上がるという事と、器の守護を再び安定させる為には殿下の存在が必要だという事です」

 器の安定にはセキレイが必要。

 「枯葉よ、したがわしは冥府の門の守護者じゃ。守護者は定めの輪を正しく回すが役目。なれど、地上の乱れを治める事を約束するのであれば一時のあいだ、そなた達の罪をこのわしが受けよう」

 そう告げた次の瞬間、キサラの額がぱっくりと裂け、鮮血が吹き出る。

 「キサラ様っ」

 それだけではなく、彼女の身体の各所が何の前触れもなしに切り裂かれたように皮膚が裂け、血が噴出す。
 象牙色の滑らかな肌から赤い血が止めどなく地面へと伝い落ち、小さな池を幾つも作り出すがキサラはその強烈な痛みにも眉一つひそめることなく、逆に微笑んだ。

 「約束違えた時には縛につかせようぞ…そして人の子よ…そなたにはとこしえの安寧を与えよう…枯葉よ、忘れてはならぬ…目に見える真実と偽りだけが全てではない…さらばじゃ」

 澄んだ音を立てて狭い世界が崩れ去る。
 それは沢山の細かな光りの粒子となり、次第に現実の世界へと導く架け橋となる。
 元の景色が眼前に広がった時には、窓の外で荒れ狂っていた空が静まっていた。

 雨音が遠のいてゆく。

 雲間から降り注ぐ陽の光りが地の底の女王を照らしたその瞬間に彼女の気配は一瞬で消え去った。

 「キサラ様…申し訳ありません…お約束は、必ず…この身に代えても…」

 銀細工のように煌く雨が優しい音を奏でていた。







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