09年9月6日アップ










 その夜の星々はまるで涙を流したように薄ぼやけ、雲のベールに包まれた月の姿は灰をかぶった様に薄暗い光りまでしか地上に届かない。

 ヒノトリスタの領土の中でも南に位置する場所には“入らずの森”と呼ばれる深い森があった。その名の通り、国民はもとよりソルメキア大陸の人間はまず近寄らない。

 魂が抜き取られてしまうという言い伝えがあるからだ。

 深い森の奥には濃い藍をたたえた泉がある。

 その水は灼熱の夏の日差しをもってしても冷ややかであった。
 その泉へ、夜の闇を縫うように瞬く光がある。
 ひらり、ひらり、踊るように蝶が光りと影を纏う。
 夜露を孕んだ草の上に降りたかと思うと、次の瞬間に蝶は乙女に変わる。



金色の



 ひたり、ひたり。

 キサラは水の上をひたひたと歩いた。
 闇は優しい色合で彼女と彼女の周りの景色を包み込む。
 その不思議な景色のなかでキサラの胸の奥、鼓動と静寂の連動が凄まじいまでの神の気を発している。
 乙女がつけた水面の足跡は細かな波紋を一定の速度で広げ、微弱な音色を生む。
 淡い色素でできた髪が風に凪ぐ。
 幾分か深い色をした琥珀の双眸は、今は目蓋の奥にひそめられたまま、可憐で長い睫毛を震わせている。
 空気と水か擦り合わさり、澄んだ響きを生んだ。

 それは地上にあらざるものを惹く弦の響き。

 みなもに浮かぶ波紋が消え、それは今この闇に存在していた穏やかさを奪い去り、無音の呼吸が近付く。
 キサラのなかで彼女自身の神の気が無限に高まり、空気さえ震わせながら同じく神の呼吸を引き寄せる様子は、正に光と影の絶対のバランスのように美しい光景だった。

 耳鳴りのような空気の緊張が最も高まった瞬間、天を穿つような巨大な槍のように水の固まりが一気に突き上げる。
 水面の上に凛として立つキサラのすぐ間近で起こったうねり。そのなかに黒く動く大きな魚影が映った。
 暗闇のなかで、しかし確かな輪郭がキサラの双眸には見える。それはその魚影が微かにその身から光を放っているからだった。
 人の大きさなど遥かに凌駕し、そのヒレは目の前の乙女を軽々と一薙ぎしてしまいそうな程だ。

 黒金に煌めく巨大な鱗は怪魚がその身をうごめかす度にキラキラと輝き、水滴というには大きすぎる水の玉がその周りで宝石のようにまとわりつく。

 キサラはその姿に感嘆のため息と、美しいものを焼き付けるように真っすぐな視線を送る。
 怪魚の円形の目玉がぎょろりと動くとキサラの瞳と交差して高揚したように黒金の鱗や、銀色のヒレがぶるりと震え、空気さえもその衝撃に呼応してキサラの肌や髪にびりびりとした振動を伝えた。
 みなもから跳ね上げた身が再び水面へと戻るために背を反らせて落下する時も怪魚の目玉はキサラから外されない。

 いまキサラの気と怪魚の気は二つが同じく高まり、相反し絡み合い見事なうねりを呼ぶ。

 乙女と怪魚は見つめあったまま、無呼吸の会話を、幾千の言葉を交わし、やがてその姿がみなもに吸い込まれるまで二つはいかなる干渉も及ばない完璧な調和を織り成していた。

 凄まじく轟く水音と水しぶき。
 爆音が辺りに響渡り、風圧が一気に周りに広がる。
 しかし不思議にもキサラの身には一雫の水滴さえもかからず風はその小さな身に襲いかからずに微かに彼女の長い髪を揺らしただけだった。

 瞬きほどの間は、まるで何千の時をお互いに過ごしたような時間を与えた。
 怪魚は既に水のなかに消え、名残は黒い魚影となって水面に映るだけ。
 沈み込んだ時に高く上がった飛沫はいまだ雨のように降り注いでいた。

 さざめきが止むと、再び闇と静寂が訪れ、水の上に立つ乙女だけが残される。

 静寂と鼓動の連続。

 細目のような雨が止んだ頃、泉の中心には月光を閉じ込めたようなキラキラとした光りの粒の集まりが、深く深く、泉の底より尚深く、一つの路をつくり出す。

 彼女の治める、神秘と常しえの夜の世界へと続く路。

 女王キサラの治める世界、そのなかでも一際美しい金色の芝生の地は唯一地上の光りが届く場所。
 その場所でひたすら熱心に祈りを捧げる者が一人いる。
 光り輝く金の髪は地上からの陽光にも劣らぬまばゆさを放ちながら波打ち、深い緑色の双眸が今は濃い睫毛に縁取られた目蓋の奥に仕舞われていた。
 容貌はまだ十代半ばの瑞々しい盛りを保ち、若鹿のように引き締まった四肢はしなやかで柔軟だった。
そして白銀の衣装は魂の清廉さを物語っていたが、彼がその色を好むのは遥か昔、生まれ育った地にて白銀の旗をかざして戦場を駆け抜けた記憶からだろうか。
 何者にも染まらぬ魂をもって大切な者を守る…その思いを込めて彼の故国は白銀を天に掲げていた。
 長い足を地に跪き、レアラは一心に祈る。
 自分の最も愛する女性の為に。


 トゥ・リアラ。

 地上にいる彼女はいまどうしているのだろうかという不安だけがレアラの心を支配していた。
 「どうか無事で…」
 本当は離れたくはなかった。
 しかしエルリィヒの呼びかけに応えたトゥ・リアラを引き止める事も出来なかった。
 地上には弥勒がいる。
 あのトゥ・リアラがどれ程までに彼に焦がれているのかをレアラは良く知っていた。

 「まだ祈っているのかレアラ」

 跪き、身じろぎ一つしないままのレアラの背後に静かに立ったのは女王キサラの夫君であるブラドだった。
 彼は地上のドラゴン達の主であり、本性は巨大な怪魚である。

 いっそ白髪といって良いほど色素の無い銀髪と、目の覚めるような紅い瞳の雨の王。

 存在を示す名を持たなかった彼が、唯一人心を許すキサラに懇願して己に名前を与えて欲しいと請うた時、キサラはその真紅の双眸を見てブラドという名を付けたといわれる。
 人の姿をとった時のブラドは十代の少年のように年若いが、彼は既に数万年の月日を生きており、それだけの年月を経てもまだ若々しい姿であるという事は果てが無いと思われる程の寿命の長さを物語っていた。
 女王不在の今、ブラドがこの地の底の支配を代行している。
 祈りの体勢から首を動かしただけでブラドを振り返ったレアラの目には畏怖も服従も忠誠もない。
 ただ静かな目でブラドを見返した。
 それを見てブラドは内心で驚いていたが表情には微塵も出さない。

 「人であった頃は、自身の運命に抗い、飲み込まれ…人でも闇でも無い存在となった頃は、ただ出口の無い憤りを愛する者にぶつけて傷つけるだけだったお前が変われば変わるものだ。
 以前のお前であれば地に膝を折るくらいなら命を捨てているだろうに」

 ブラドの血の気の無い唇から発せられる声は静かだが、サラサラと降り注ぐ雨のように流麗で、確かな波紋を引いて冷たく相手の耳に届く。

 「俺が変わったとすれば、それは俺自身が望み、そしてその変化を世界が望んだ結果だ。
 全ての存在は己の望む形に常に変化し、それに相応しく世界は姿を変える。
 けれどそれは俺という魂を変えたわけじゃない…俺の心が変わるわけじゃない。
 木が冬にその身の全ての葉を散らし、再び春に緑樹となるのと一緒の事だ」

 相反してレアラの声はじりじりと肌を焼く様な熱さを秘め、荒ぶる灼熱の炎が何もかもを焼き尽くした後の土の中に眠る生命を呼び覚ます熱のように心を揺さぶった。

 より気高く、より激しく、レアラは自分が望むままに変化する。

 『彼は夜明けのような人なのです…深遠の闇のなかにあっても尚、その心に光りを再び掲げる事の出来る強さを持つ人…フェリオダイ(掲げられた光り)とは私にとってレアラそのものなのです』

 いつだったか、白薔薇と例えられる美貌の女がそう言っていたのを思い出す。
 だがその美しい薔薇も、レアラにとっては今も昔も小さなトゥ・リアラ(泣き虫姫)のままなのだ。

 苦しみがあるからこそ、愛を求める。

 それは人であるからこその強さなのだろうか。

 遥かな太古から精霊として存在し、ただ地の底の水底に沈んでいた己にとっては無縁のもののようだとブラドは思った。
 ただ己は最初から諦めていた。
 世界は彼にとってただ己を貪ってゆくだけであったから。
 与えることに疲弊し、奪い尽くされることに恐怖していた。

 愛されることに飢えてはいても、求めることは絶望していた。

 息をする自らの身体に失望していた。

 心が死にかけていることをただ黙って受け入れようとしていた時にブラドはキサラと出会ったのである。
 必死になって彼女に縋り、ただ愛を乞うた。
 添い遂げたい一念だけがブラドの心を埋め尽くし、その全てを手に入れたいとただそれだけが望みとなり、己の全てを彼女に注いだ。

 ブラドには愛する唯一の者を他者に委ねることなど出来ない。

 愛する者を弥勒に委ねる事の出来るレアラ。そして彼に傷つけられても尚、信じ続けた トゥ・リアラ。
 二人の間には確かに絆があるとブラドは思う。

 「昔のお前は…終わることのない永劫のキャンバスの中で藻掻き、嘆き、悲壮を繰り返し、その命の悲鳴は大地を揺るがし闇を切り裂く刃だった。
ただひとつ、生命の始まりから闇のごとき最奥の叫びと光をその手のなかにたずさえて、泣き喚く赤子のように純粋で残酷なお前をそこまで変えたのはトゥ・リアラか」

 相変わらず抑揚なく言葉を発したブラドの問いにレアラは遂に無言のまま再び祈りを捧げる。それはどんな答えを返すことよりも雄弁に物語っていた。

 トゥ・リアラだけが自分の全てを捧げるべき相手なのだと。

 だからレアラは数百年でも数千年でも待ち続ける。

 例えそれが数万年かかろうと。

 どれだけ過ぎようと彼はトゥ・リアラが心から笑う日を待ちわびる。

 「あの女は知らぬのだろうな…お前が今も光りを掲げられるのは、あの女自身がお前を信じ続けたからなのだということを…」

 レアラの背を見つめながら、自分にだけしか聞こえない程の声でブラドは呟く。
 金色の芝生の地から離れ、自分の棲家の湖へと戻れば途端に静かな闇が訪れる。

 黎明はいつの日も必ず人に夜明けを与えるというが、かの乙女の胸に、未だ陽の光はささない。
 弥勒という光りを失ってから…。
 「愚かな…レアラの掲げる光りは、変わらずにただ一人だけを照らす為にあるというのに…」

 この感情はなんだ…。

 あの二人を思うと、どこか胸が絞られるように痛む。

 「なぜ、このようにあの二人の事になると冷静でいられなくなるのか…」

 自分で自分の感情を制御できない。

 「それほどレアラとトゥ・リアラの行く末が気がかりか?ブラド」

 すぐ近くで水の跳ねる音がした。

 わずかの布擦れの音もなく、深海から浮かび上がる一粒の泡のように密やかに、この地の女王が降り立つ。

 地上で負った傷の跡はどこにも見当たらない。  彼女の白く柔らかな肌も、艶を含んだ長い髪も傷一つなく、噴出していた血のかすりすらない。
 かわりにキサラを導いた月の光りの粒がその全身を淡く光り輝かせ、彼女のもとにだけは、常に月光が差す。

 しかし彼女を最も愛する者は、その秀麗な眉をしかめた。

 陶器のような妻の滑らかな頬をそっと包み込み、長く繊細な指で髪をかき上げ、血の通わない温度の唇でもって、彼女の額に口付ける。

 それは精霊の愛の証。

 愛する者の額から自分の守護の力を授けるのだ。

 額に唇を寄せたままブラドは囁く。

 「酷い傷だ…あと一息で魂まで届くほどに鋭い刃を…貴女は枯葉の代わりに受けたのか?」

 紅い瞳の奥に、沸々とした嫉妬の感情が浮かぶ。
 それをなだめるように、キサラの何もかもをおし包むような手がブラドの白銀の髪を丁寧に梳いた。

 「気を荒立ててはならぬ、地上が乱れるゆえな。…そのように怒らないで欲しい…確かにゆゆしき事態に事は流れておるが、今一度なりゆきを人に預けてみようと思うたのじゃ。
 傷は深いが、なに、そなたにこうして癒しを受けるのであればそれ程苦痛にも思わぬ…それに、地上の泉でそなたが地底への路を開いたときに初めて出会った頃を思い出した」

 感情の起伏が無いに等しいブラドの、紅い瞳が僅かに大きくなる。

 まだ人間だった小さなキサラ。

 そのあまりにも美しい魂が弾く光の弦の旋律が、地上を貫き、地の底の更に深い湖の一番奥底に潜んでいた太古の精霊を引き寄せた。
 水底から身を、水をかくために一心に動かして地上の水面に出現したブラドが見たのは、その音色を奏でるのに相応しい汚れのない姿をした少女だった。

 「長の月日を地底に引きこもっておったから、そなたの本来の姿を見たのも久方ぶりであったの…」

 黒金に濡れ光る鱗に身を包んだ忌まわしい怪魚の姿。
 落ちくぼみのまったくない面には大きな円形の不気味な目玉と、口には無数の牙。
 ブラドは心底自分の本性が好きではない。
 それに怪魚の姿では、心がキサラに惹かれるたびに、想いを自覚するたびに唇がそれを形にしようとするけれど、魚の喉では言葉を連れてきてはくれないまま、ただ水の泡となって消えていく。


 「どうした?何を泣く…ブラド」

 口元一つ歪めないまま、紅の双眸から透明な雫が幾筋も頬を伝う。
 けれど血の気の無い唇から紡がれる声は、震えていた。

 「貴女に恋をした初めての瞬間を思い出していた」

 こんな存在もあるのだと…昏く憔悴と飢餓の心ばかりを刻む自分とは遠い、優しい温かい心を持った者がいるのだと初めて気がついた。
 世界の歯車の一つとして、それを支えるためにだけあるこの身は与えることに疲弊し、奪い尽くされることに恐怖する。
 愛されることに飢えてはいても、求めることは絶望していた。
 息をする自らの身体に失望していた。
 心が死にかけていることを自分はただ黙って受け入れようとしていたはずだった。

 それなのに…と。

 ああ、今自分にそれを与えるのか…と慟哭を身の内に打ち立てたあの瞬間。

 暖かな光をこの時になって浴びせられるのか…と。
 それは苦痛を伴って胸にぬくんだ温度を与えた。
 のたうちまわる感情の波は絶叫を上げてこの身ごと打ちのめし、崩れていくのを望んでいるのにどこかで留まりたいと縋る心の呟きが憎らしいほどにはっきりと聞こえる。
 溢れ出る涙が、この仕打ちに対するものなのか判らずに、ただ悲鳴を上げる心のままに魚の目玉から流れ落ち、頬を濡らし続けた。

 拒絶の叱責が求めようとする心を叩く。
 人間と精霊のたった一瞬の逢瀬。
 手を伸ばしても二度目は永遠に遥か遠くに去っていく運命。
 お前に”再会”は待っていないのだと、人間と精霊の掟が突き刺さった。

 「それでも貴女を想い続けたかった」

 この心にいる彼女にだけ触れられればそれでいい。
 そして一度触れれば後戻りできない心をブラドは気づいていた。
 解き放ってしまえばもう二度と振り返れない。
 それなのに求めるのかと…理性という鞭が容赦無く振り降ろされ、怪魚の精霊はその狭間で苦悩した。
 生まれてからこの日までの自分の小さな世界に蒔かれた小さな一粒の種。恋という名のその種が芽吹いたときに、彼は喜びと苦悩を同時に味わったのだ。

 断末魔にも似た歓喜と絶望の果て。

 世界の為に身を捧げる精霊の最初の恋だった。

 それはなにも知らなかった存在にとっては初めての猛毒。

 身を滅ぼす程に何もかもを与えて、受け取ってほしいと願う程に心蝕む。

 怪魚は水の中で自分のヒレを見る。
 この醜い手は彼女を抱くためには出来ていない。

 脳裏に甦ったのは、小さな少女の頼りないほどの手足。

 この身に人間のような手足があったなら。

 キサラの手を取れる腕を、側にいくための脚を。
 キサラが恐れないような、人の姿が欲しい。
 見つめあった瞬間の、大切なものを見るあの眼差しと同じ人間の眼が欲しい。

 怪魚は再びキサラが地の底の女王として深い水底に落ちてくるまで何度も願った。

 彼女に愛されるための姿が欲しいと。
 呼んでもらうための名が欲しいと。

 「ブラド」

 その声に、弾けるようにブラドは視線をキサラに向けた。
 琥珀色の瞳がまっすぐにブラドを見ている。

 キサラの手が優雅な仕草で、掌中の珠に触れるように頬を撫でた。
 確かめるようなその仕草にブラドは微笑んでなすがままになる。

 「ブラドに与えられた色はこれだけじゃな」

 琥珀色の双眸がブラドの姿を映す。
 そこにあるのは紅い瞳。
 「私はこの色だけで十分だ」

 貴女が綺麗と言ってくれる色だけあればいい。

 伸ばすことの出来る腕も、駆け付けることの出来る脚も手に入れたから。
 貴女に呼ばれるための名を貴女自身から貰えたから。

「キサラ…」

 先のことなんて何もわからないからこそ、誓えるのかもしれない。

 永遠はどこにもないから、それが終わるまで愛し続けていると。

 涙でけぶる紅の瞳。

 妻の美しい顔を月の光りが照らす。
 月は必ずキサラを慕って彼女を頭上から照らすのだ。
 その光景に、ブラドは月にすら嫉妬してしまう。
 存在が二つあるからお互いがあって、だからこそ惹かれ、欲しいのは心だけじゃなく、その髪の毛一筋だって愛しい。
 自分がどんなに醜い怪魚の化身であったとしても、この腕も胸も脚も全部が仮初めの姿だったとしても、いつも思うのはキサラの全てでありたいということ。

 愛しい人を腕に抱くことを誰にも否定はさせない。

 愛されたいと願うことがどうしていけない。

 こんなにも望んだ相手なのに。

 抱き締める度にどんなに嬉しいか。

 触れられる度にどんなに幸せか。

 愛されているという喜びを誰も咎める資格なんかない。

 愛を囁いてくれる妻が自分にとって存在意義の全て。

 だから誰も、彼女に触れないで欲しい。

 奪われることの戦慄も知らない者が軽々しく不用意に近づかないでくれ。

 この、胸の痛みさえ彼女に向かっているのに。

 それまでの自分のなかにはただ己への興味しかなく、深い深い水の中で張り付くように闇を纏い、凍えるような呼吸を繰り返していた。
 自分の周りにある世界は全てが夜よりもなお暗い。

 「そんな何も生み出さない世界のなかで生きていた私のなかに、貴女は眩暈さえ起こしそうな鮮明さでやってきたんだ」

 煌めく光…光…光…。

 「何者にも執着しなかった自分の心が…身体が…貴女に向かっていくのを感じて、その時の私は自分の外見の醜ささえ忘れて、ただ貴女に会いたくて、絡みつく水を歯がゆく思いながら、水底からを稲妻のように水面に向かって泳ぎ、自らの姿を曝した」

 そして鼓動の数の遥か幾倍もの時間を共有した心の歓喜。

 美しい時間。

 雨の精霊の至福は、その瞬間に定められた。

 「いとおしいという感情を、愛したいという想いを与えられた時から、私の心にはたった一人貴女の姿しかなく、この胸には唯一つの感情が全てを支配する」

 愛したい…愛したい…愛したい。
 そして愛されてみたい。

 この醜い自分を、澄んだ瞳で見つめてくれた存在。
 昏き水底のなかで密やかに呼吸を繰り返し、たゆたうこの身が狂おしいほどに求めている。

 愛されたい。

 優しい眼差しと、清らかな命と心をもつ貴女に。

 まばゆいばかりの光り輝く生命力をみせつけ、ブラドの全てを根こそぎ奪ってしまった乙女。

 「今も昔も、貴女が私を捕らえて離さない」

 あの二人を放っておけないと思う己はもしかして、レアラに対して昔の自分を重ねたのだろうかとブラドは自問した。

 「愛する者に振り向いてもらえないことは、ひとり何万年もの間をみな底で過ごす事よりも尚孤独だ」

 紅い瞳から、また一粒涙がほろりと零れる。

 「愛する事と同じ分だけ、愛されたいと心から願っているのに…」

 けぶる双眸が、まっすぐにキサラを見つめた。

 「貴女はまだ、私を愛している?」

 問うてくる声も、眼差しも不安を一杯にたたえている。

 「お前は知らぬのか?ブラド、そなたこそが失われた、わしの本当の名前を取り戻してくれたのじゃ…いとおしいのぅ、この手の平に包み込み、愛でてやりたいほどに…」

 常とは違う少女のように無邪気な笑みを浮かべながら、キサラはブラドの後ろ頭を大事に抱え込み、何を塗らずとも艶やかな赤い唇を自分の夫の血の気の無い唇に寄せた。







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