私の生まれた日には紅の雨がふったのだと母が話してくれた。 二人きりになり、流桜はランに寄り添ってうっとりと目を閉じながら甘い声でそう語る。 「…紅の…雨、ですか?」 互いの息がかかりそうな程の近さで二人は話す。 ランがテインに愛雨の性質であると言われた意味を流桜に問うと、赤い髪の奥の鳶色の双眸はそっと開かれて、 雨粒が日の光りにきらめく様な輝きをたたえた。 「紅の色や薄紅色をした花などに振り注ぐ雨のことをそう言うの… 私が生まれた日はそれは桜が今を盛りと咲き誇っていて、その花弁に雨がしとしとと降り注いでいたのだそうよ。 桜の花びらから流れ落ちる雨の様子を見て母は私の名前を流桜としたの」 ランの澄んだ蒼い瞳を見つめながら話す流桜の艶のある頬は次第に赤みを帯びて、整った顔の、 その目元が嬉しさを表す様に細まる。 愛しい人のそんな表情を見るランも唇をきゅっと噛み、胸に湧き上がる甘くむず痒い気持ちを持て余すように 頬を染めて、綺麗なラインの眉を僅かに寄せた。 確かに自分は愛雨の性質だろうとランは思う。しかしそれは流桜限定であり、ランにとって流桜こそが 甘く心地よい春の雨のように胸を潤わすなんともいえぬ香りを放つ。 チラとランは流桜を真っ直ぐに見つめた。すると先ほどまで微笑んでいた流桜はその真っ直ぐな 視線の中に見え隠れする誘うような色を見つけた瞬間にドキンと胸が高鳴るのを感じて僅かに表情を強張らせる。 流桜は期待と戸惑いで胸を騒がせながらもこんな時のランの強い眼差しをとても好ましく感じながら やっと搾り出すようにかすれた声を発した。 「…ラ、ン…ここは、人が通るかも…」 ああ、でもやめないで欲しい…。 「大臣が見た、ら…うるさ、いかも…」 でも…もっと近づいてきて…欲しい…。 「…あ、あのっ…ランっ…」 もっと息のかかる程…唇が触れるほど…。 「…止められなく…なるかも…」 それでも…キス…したい。 唇が塞がれたのと同じ瞬間に流桜は目蓋を閉じた。 柔らかくて温かくて、吸い付くように濡れたランの唇の感触がうっとりとさせてくれる。 ちゅっと時折啄ばむ様に動くランを流桜は可愛いなぁと思い、答えるようにそっと彼女の唇を噛んでみたりする。 あの時、勇気を出してランに告白して良かった…。 口付けが深みを増すなか、流桜は幸せをかみ締める。 ランがブルーリンゲルンに来てから過ぎた日々は半年間しか経っておらず、 密な間柄になったばかりの二人は未だにお互いの事を手探りで知る事も多い。 国の違いや身分違いとわかっていても流桜はずっとランが好きで、まだ幼少の頃に初めて出会った時から思い続け、 育ててきた想いだった。 小さな頃は大人しくて引っ込み思案な所が目立つ王女だった流桜は、けれど恋に対する憧れは早くから芽生えており、 幼心に可愛らしい素敵な誰かとの砂糖菓子のようにふわふわとした夢の日々を思い描くような内気な少女だった。 そして夢の中の“可愛らしい素敵な誰か”は、ヒノトリスタに赴いた時から“ラン”という一つ年上の少女に変わる。 ランに出会う以前にも“素敵だなぁ”と思うひとは幾人かいたが、彼女を一目見たときから流桜の心は昼も夜も恋の病におかされた。 「そういえば儀式の場には弟君がおられたよ」 ふと思い出したように流桜は口付けの合い間にそう囁く。 「織姫(しき)が?」 ランの弟である織姫のことを流桜は“弟君”と呼ぶ。公においては一国の王としての振舞いを崩さない流桜であるが、 私事になってくると全ての事がラン中心に回る。そして彼女の弟である織姫に対しては良い印象を持たれたいという 気持ちが強く、幼かった頃の引っ込み思案な部分が尾を引いている為もあってか非常に腰が低い。 ランとの仲を親しくする方法も流桜は“将を射んとすればまず馬を射よ”なタイプであったので まだ王女時代の頃に織姫を追い掛け回し、自分の恋に協力するよう懇願した。 当時の織姫は流桜の弟であるテインと既に友人であったので、彼に対してこう漏らしていたという。 『おかしいと思うたんや…テインの姉君は確か同性愛者であらはるいう話しやったのにどうして 俺なんかを追っかけてくるんやろうって。けどまさか俺の姉ぇちゃんがお目あてやとは… まぁ、流桜殿下は真面目やし能のあるお方やよって俺の姉さえよければブルーリンゲルンに嫁いでいっても…』 ランの母国であるソルメキア大陸の3大国のなかで東に位置するヒノトリスタは遥か昔から最も敵国の脅威や 北の山の魔物の襲撃により痛手を被ってきた国である。類稀な魔力をもつ者が多く、強い武力を備えた国であったが、 東の大陸からの侵略と、北山からの魔物に常に危険に曝されていたヒノトリスタはジャナスティアやブルーリンゲルン との友好関係を大事にする事で国を守る力を保ち続けた。戦いが日常の生活に付きまとう暮らしのなかで贅沢は嫌われ、 他の2国のように主人が多数の愛人を持つような事も嫌われ、良人のみをただ一人愛しぬくとこが 大事とされて今に至る。 ブルーリンゲルンはジャナスティアに比べ比較的王族や貴族が愛人を持つことの少ないお国ではあるが 国王が他国の大臣の娘を側女にしようとしているのではないかと最初は大変厳しい目で見られるだろうことは 流桜も織姫も重々承知していた。しかしそれを乗り越えて流桜がランを想い抜いてくれるのならばと織姫は協力をする。 もともと質素倹約が美徳とされたお国柄のヒノトリスタにおいては誠実と堅実さとが良しとされたので両国が以前から 友好な関係ということもあり、無駄遣いの嫌いな流桜の性格や一つ筋の通した政策など、何より流桜の一途さがランに 受け入れられて彼女の片思いは実を結んだ。 そんな経緯もあり、以来流桜は織姫には感謝の念と“大事なランの大事な弟君”という気持ちから内心頭の上がらない 部分も多い。だが織姫のほうで腹に一物という考えが無い為、この自分の姉の良人に対して「あのぅ…お願いですから そないなお気遣いはどうぞされませんよう…私の姉はもうそちらに嫁いでいかれたんですし、姉の人生は姉のものです やろ?何より私らは姉が幸せならなにも言う事はあらしまへん」と、ブルーリンゲルン国王に嫁いだ姉の権威に笠を 着るような真似はしなかった。 「そうですか…織姫とお会いになったのですね」 嫁ぐ日も「後のことは何も心配しなくていい」と笑っていた弟の事を思い出し、ランはふわりと微笑む。 そしてその笑顔に何か勢いを得たように流桜は饒舌に儀式での事を語り始めた。 「ヒノトリスタからはアツィヤフレオ陛下が跡継ぎのレアトリアス殿下と一緒にいらっしゃっていた。 やはりアツィヤフレオ殿はそろそろご自分の息子に王位を譲ろうとお考えなのだろう…その場にランの弟君も 同席していたわ。それからジャナスティアではカヤト陛下と枯葉殿の二人だけの参加だった…相変わらず仰々しいことが カヤト殿は嫌いなようで共の者も少なくファーガーンの若い者がその厳しい表情に思わず困り果てた顔を していたわ…」 その時のことを思い出して流桜はクスクスと笑う。 「儀式自体は毎年そう変わらないけれど、剣の奉納の時はやはりルシェ・ファラウ様のお姿を見ると…」 ぴきんっと空気が冷えた瞬間を流桜ははっきりと感じ取った。 「………あ、の…ラン?」 なぜだろう…良人の名前を呼ぶのをこんなにも躊躇してしまうなんて…と流桜は目の前でみるみる冷たい空気を 纏ってゆくランを疑視する。 先ほどまではあんなに自分の話を楽しそうに聞いていてくれたのに…自分が至らないばかりにランに何かして しまったのだろうかと良人の前では形無しの流桜は焦った。 そんなおろおろする流桜から視線をそらしてランはすくっと立ち上がるとすたすたと宮殿の廊下から庭の方へと 歩いていってしまう。 降っていた甘雨は何時の間にか止んでしまっていた。 「…ひりひりする…」 流桜との距離を随分とあけてしまったまま歩き続けるランの唇から静かに零れ落ちるのは胸の痛み。 わかっている…それが義務である事くらい…わかっている…好きで放って置かれたわけではないことくらい…。 流桜は国王としてファーガーンに行かなければならなかった…他の国王達と儀式に参列しなければならなかった… だから私は…。 「まだブルーリンゲルンに来て間もないから…色々と勉強しなければならないことが沢山あるから… ついて行くことは出来ないと…帰りを待っていた…」 流桜は何も悪くない…つまらない事でいちいち嫉妬する私がいけないのだ…。 ただ…彼女の口からルシェ・ファラウの名が出ただけで…。 流桜が長い間ファーガーンの美しい精霊姫に想いを寄せていたのは一部では有名な話。 薄薔薇色の素肌に流れる黒髪と澄み切ったトパーズの双眸。その微笑だけでこの世の花々はすべて恥らって 蕾のまま花開くのをやめてしまうと云われるほどの美貌の精霊姫。 流桜は年上好みだった。初恋から数えて幾度か恋を経験したが、想いを寄せた女性は全て自分よりも年上ばかりで、 現在の良人であるランも年は流桜よりも上である。 ランがこのように流桜の昔の想い人達に過敏に反応してしまうのは、流桜の過去の想い人達が大人びた艶やかな 魅力のある女性達ばかりであるのに対して己はあまりにも程遠い存在であると思っている故であった。 確かに流桜よりも年は上だが、たった1年の差があるだけだし、15の年を境にどうも発育が上手くいかなかった というか…出るところが出てこなかったというか…それと時期を同じくして顔立ちも大人びるのをやめてしまった というか…。 周りから言わしてもらえば愛嬌があり、可愛らしい顔立ちで好ましいのだが、ラン本人は流桜が過去に好きになった 女性の容姿が基準である。 加えて弟の織姫が何かにつけても器用にこなすのに対して自分はなんにでも不器用で時間のかかるタイプだと 思っているランは周りからは放っておけない健気な印象を持たれているのだが自分の内面において自信というものを 持ち合わせてはいなかった。 要するにランは未だに自分のどこをどう気に入って流桜が好きになってくれたかを理解できないままなのである。 ここだけの話、織姫も最初は流桜が自分の姉のどこが気に入ったのかと不思議に思っていたという。 それだけ流桜の女性の好みというのはランという少女がもつ魅力とはかけ離れたイメージで周りの人間には 浸透していた。 だからこそランもここまで気にしてしまうのだろう。 雨上がりの午後の王宮の庭に雲間から太陽の温かみが降りてゆく。 好き…流桜が好き…好き…っ! 次々と放たれてゆく矢の様にランの胸の傷口から想いが溢れ、突き動かされているように次第に彼女の足の動きは 速まり、その為に衣装の裾が乱暴に振り乱れて庭の草木や花々を撫ぜる。 バサリッと一際大きく布ズレの音がした瞬間にはっとしてランは後ろを振り返った。 見れば自分の通った道には踏み萎れた草やあえなく散った花弁がはらはらと地面へと落ちてゆく。 あ…と小さな声が艶をなくした唇から漏れた。 ここは流桜が大事にしているお庭なのに。 あの自分よりも幾分大きな手が、繊細な手つきで深く愛で、出来るが限り自分の手で育んでゆきたいのだと 他人の手を借りるのを必要最低限にして整えてきた大事な大事な場所だったのに。 いつもいつも愛しい人の笑顔を運んでくれた大切な…。 ぺたりとランは泥に汚れるのも忘れて膝をついた。 「…わたし…わたし、こんなに周りが見えてなかったなんて…ごめんなさい…」 自分の中のつまらない嫉妬が一番大切な人が育てていた場所を痛めつけた事にランの蒼い双眸から次々と 涙が零れ落ちる。 どんなに流桜が自分を大切にしてくれているかも想っていてくれているかも本当はわかっている事だったのに、 自分の短気が流桜の大事にしている場所を傷つけてしまったのだとランは愕然とした。 しゃがみ込んだまま俯いて泣いているランのもとに穏やかな葉と葉が擦れる音が響く。 直ぐ目の前に流桜の気配を感じ取ってしずしずと顔を上げたランに与えられた最愛の人の微笑みは春の雨よりも ずっと優しく甘くかぐわしい。 「…ごめんなさい…流桜…ごめんなさい…」 にっこりと笑う流桜が差し出す手にランは少しだけ戸惑って、けれどしっかりとその手をとった。 渦巻く嫉妬の昏い穴からゆっくりと引き上げられ、ランは胸の痛みも一緒になって消えてゆくのを感じる。 「ねぇランは覚えている?」 抱き合いながらしばらく互いの温もりに身を委ねていたが、ふいに流桜がそう問いかけた。 そしてそっと抱擁をとくと、地面に落ちている花弁を幾つか拾い集め始める。 その手に集めた花弁を噴水の水で綺麗に泥を落とすと流桜は再びランの手をとった。 鳶色の瞳が悪戯っぽく煌くのを見てランは直ぐに破顔する。 「ええ、勿論」 声を弾ませながらそう答えた唇にそっと唇が重ねられ、それから流桜は手に持っていた花弁を少し指の間で すり潰すと静かにランの爪にその花の汁を塗った。 ひとつひとつ丁寧にその行為を重ねてゆく流桜を見つめながらランは彼女から告白された日の事を思い出す。 あの時も確か流桜はこうしてくれた。 緊張からかぎこちなく、手は震えていて伏せられた睫毛すら小刻みに揺れていたほど流桜はランに触れることに高揚し、その頬が薄く朱に染まっていて…。 もう離れていたくない…とそうランは思ったのだった。 十本の指が綺麗に花の色に染められるとランは日差しの中に手をかざす。 キラキラと輝くその白い手を二人で眺めながらクスクスと笑いあっていた。 「…異変?」 大臣達が話し合っていたのを見つけたテインが何事なのかと問うと、彼らは東の大陸フェイルンで何か 異変が起こっているのだと告げる。 「ファーガーンに赴かれた陛下が、塔の賢者達からそう告げられたそうでございます」 「……ふぅん、フェイルンか…」 テインの明るい緑の瞳が遥か遠く、そこは空の青ささえも違って見える異国の地へと思いを馳せるように外の景色を眺めていた。 |