『トゥ・リアラ…花を見にいこう』 『レッツェンゲルの桜を』 『きっと今頃は美しい色をして咲いているから』 『けれどもしも僕らのほうが君を置いて先に逝くことになったら、その時は出来るだけゆっくりと後を追っておいで』 『大丈夫よ…どんなに時が流れたとしても、私達は約束を覚えているもの』 『向こうの世界でもきっと桜は咲いているから』 『できるだけ遠回りして来ればいい…どんなに遅くなっても待っているわ…』 ――約束の場所でまた会おう―― 「そうして私は約束を背に遥か長い月日をこうして過ごしてしまった…」 プラチナ・ドラゴンとフェアリー・ドラゴンが去って行った後、織姫達の前に現れたトゥ・リアラは飛行船へと残った。 彼女は聖なる器の所持者である三英雄の一人、アトレイユであり、永い時を生きる存在である。 もうすぐ初夏へと季節は巡ろうとしているが、それでも真夜中の夜風は肌に冷たく感じる。飛行船のブリッジに立つトゥ・リアラは 長い髪を風に遊ばせながら長い間じっと青白い月を見上げた。 「キレーなお月さんやな」 不意に彼女の背中へと声をかけたのは織姫だ。彼は雲海を渡る船のなかで、大きく夜空に浮かんだ月と、煌めく星々を見上げながらそんなことを呟き、静かに佇んでいるトゥ・リアラに視線を向ける。 「私の姿が気になりますか?」 内包物のまったく無い薄紅色の瞳が真っ直ぐに見つめ返してきたので織姫は目を合わせることが出来なくて僅かに目を伏せた。月の光りの下でも トゥ・リアラの美貌は煌いており、まともに見るのにも心の準備が要る。 (まいったなぁ…こないなべっぴんさんの前だと緊張してしまうわ) 「アトレイユ様のお姿を見たときに直ぐに気がついたことがありました…クロウェンの巫女とあなたはよぅ似ております」 織姫の問いにトゥ・リアラは微笑む。 「私の中にはクロウェンの血が流れていますから…そしてヒノトリスタ王家の」 「じゃあ、アトレイユ様はヒノトリスタ王家の王女…」 「もう遥か昔の話です…私が人として生きていた時代はアガタダルタ大陸の帝国や魔物との戦いが最も激しい頃で、私も戦場へと何度も赴きました」 トゥ・リアラの双眸に暗い翳りがさした。 「わたしを最初にトゥ・リアラと呼んだのは共に戦った友人達でした」 “トゥ”は尊称あり、“リアラ”は泣き虫という意味がある。 「トゥ・リアラ(泣き虫姫)…そないな呼び名が似合うてた頃がおありになったんですね」 フェアリー・ドラゴンと対峙していた時に見せていた揺ぎ無く強い光りをたたえた目を思い出し、織姫はむしろ泣き虫姫と呼ばれていた頃があたっという事を好ましく感じた。 「カリナス神殿は今もあるのでしょうか?」 「はい、あの神殿は春になると桜がうつくしゅう咲きますので古い建物ですけど大事にされてます」 桜という言葉にトゥ・リアラは懐かしい響きを感じた。 それは今は亡きいとおしい声。 「アトレイユ様は…桜がお好きですか?」 その問いに薄紅色の双眸がふと遠くを見るようにすがめられる。 「この夜のように月の綺麗な日にならきっとカリナス神殿のあるレッツェンゲルの桜はこの上もなく麗しいでしょう」 トゥ・リアラはそう言って青白い月を見上げた。彼女の秀麗な額が月光に照らされ、ほのかに赤みのある頬をした素顔を白く輝かす。長い髪が風にサラサラと揺れる中で、その絹糸のような髪一筋さえも光りを纏っている様に神々しく見えた。 「その…アトレイユ様はアレルデフェンの恋物語を知ってはりますか?」 それは有名な昔話で、まだ神々が地上にその姿を留めていた時代に月に恋焦がれ、そして儚く消えて逝った精霊アレルデフェンの物語。 「純粋で美しいものほど、また儚く、辛いか、……難儀な話やなぁと初めてこの話を聞いたときに思いましたわ」 織姫はひっそりとそう漏らす。 彼のその瞳には何かを考えている色が見え隠れしていることがトゥ・リアラにはわかった。 「何を考えていたのです?」 すると織姫は月に背を向けて、船の縁に腕をつきながら先程の自分の言葉を失笑するようにくすりと笑う。 彼は自嘲気味に笑い声を漏らしながら「いえ、我ながら似合わんこと言うてしもたと思いまして」と語り、そして言葉を続けた。 「人もまた弱く、傷つくことを知る生き物なんやと…そう、考えてました」 遠くを見つめ、光りに背を向けて、織姫はとても温かい眼差しで自分たちが歩んだ旅の軌跡を眺めているように見えた。 「今夜のお月さんはほんとに綺麗や…精霊も惚れるだけあるわ……こんな夜には月影の間からでも何かが出てきそうな気がします…アトレイユ様も早めに休まれますよう」 言い終わると同時に織姫はきびすを返して再び船内へと消えてゆく。 その姿を見送りながらトゥ・リアラはひっそりと呟く。 「なぜ精霊は…愛ゆえに傷つき、胸潰れて死ぬのでしょう…」 なぜそれほどまでに傷つくことを恐れないのだろう。 どれほどの傷を負うことになっても厭わないくらいに深く愛するのだろう。 「そんなことがそんなに不思議ですか?」 トゥ・リアラの思考を遮るようにその声は閃き、一瞬にして彼女はその身を硬直させ、周りの空気の流れさえも意識の中で凍りつかせた。 風の冷たさとは別の意味で身体に震えが走る。 自分に注がれているとても穏やかな、そして強い眼差しを感じて、そしてその視線を向ける主が誰なのかを知っているトゥ・リアラははっきりと相手の名前を呼んだ。 「……弥勒…」 月影の間から現れたのはトゥ・リアラよりも年若く見える、まだ少年と言ってもいい年頃の姿をした神様。 「精霊だろうと人だろうと神だろうと…そんなもの関係なく…悲しみや愛しさに胸潰れて死ぬことだってあると僕は思う」 同じほどに皆弱く、また強い存在だから。 トゥ・リアラの真後ろにいつの間にか歩み寄っていた弥勒は背を向けたままの彼女にそう言った。そして微動だにできないその華奢な身体を優しく少年の腕が包み込むと、風の流れよりも緩やかに引き寄せてゆく。 「来てしまったんだね…リーズフェルト」 制約を課した姿の弥勒とトゥ・リアラでは身長差は僅かしかなく、彼女の細い肩に顔を埋めながらまるで痛みをこらえる様な、辛そうに擦れた声で紡がれた弥勒の言葉がはっきりと届けられる。 お互いに顔の見えない位置にいても、弥勒には今彼女がどんな表情なのかが直ぐにわかり、嬉しいような悲しいような、胸の切なさを素直に表情に出しながら、静かなこの場の空気を壊さぬように話しかけた。 「怒ってるんだね…君を置いていったことを」 弥勒が手を回してそこにあるであろうリーズフェルトの小柄な手を柔らかく握る。 「そして悲しんでもいる…ゴメン…君にそんな顔をさせたかったわけじゃない」 握る手のその小ささと…そして愛しげな…実際いとおしいばかりでどうしようもないくらい大切な少女。 けれども弥勒には見守る事は出来ても自分の望むような形で手を差し伸べてやることも彼女の望むような形で手を差し伸べてやることも出来ない。 「フェアリー・ドラゴンが眠りから目覚めたそうだね…彼の傷もやっと癒えたんだ」 「弥勒…?」 「そして君も…もう一人で歩くことが出来る」 「…弥勒…」 「僕と君の為にあったシェルターはもうどこにもない」 「……」 トゥ・リアラは何か一言だけでも弥勒に言葉をかけたいと思い、そう思いながらもなにをどう伝えればいいのかが判らずに少しの間、 物言いたげに唇を僅かに動かしていたが彼女のその艶やかな唇からは結局どんな言葉も零れ落ちてはこなかった。 せめて互いの顔が見えるようにしたいと願ったトゥ・リアラが弥勒の抱擁を僅かに身をずらして緩める。 そして振り返った時の彼の表情に、かける言葉を一言も失くしてしまった。 琥珀色の双眸は言葉よりも雄弁に多くを語っていたから。 トゥ・リアラは弥勒がもう自分の傍にはいてくれないのだという事実を彼の瞳の中の強い意志に改めて感じることしか出来ない。 「リーズフェルト…君はどうしてエルリィヒの呼びかけに応えてしまったの?僕と君が初めて出会った日から既に数百年の歳月が流れ、最早この世界には君という者の真実の姿を覚えている人間はもう誰一人として残っていないというのに…あのままキサラやレアラのところにいるべきだったはずだ」 「…だって貴方は自分の手が届くものを昔も今も変わらずに全部大事にしているから…せめて私は…貴方が大切にしている世界が少しでも傷つくことが無いようにしたかった…」 弥勒がなぜわざわざ自分に制約を課してまで人間として地上に留まっているのかをトゥ・リアラはよく知っている。この世界は弥勒に笑顔を与えてくれる、喜びを与えてくれる、彼の中の果ての無い孤独を癒してくれる存在なのだ。 「そんなことの為に地上へと再び現れたの?馬鹿な子だね…リーズフェルト…僕が守れる世界なんて…君がいる世界だけだとわからないんだから…僕が手を伸ばし精一杯抱きしめられる存在…他には何もいらない…君は僕の心…でもね、リーズフェルトいくら自分の大事な心でも思い道理にならないことが続くと歯がゆくてやってられなくなるよ」 時はもうすぐそこまで迫っているような気がした弥勒は今この一瞬だけでいいから愛する者のぬくもりを感じたいと切に願う。 (大事に大事に護ってきた僕のリーズフェルト) 僕らは心に孤独という嵐を抱いて生きている…冷たい雨に打たれ、強い風にあおられながら君はたどたどしい足取りで小さな小さなシェルターに逃げ込んできた。 そのシェルターは同じように嵐から逃げた僕が創り上げた暗くて小さな「居場所」。 もうずっと気の遠くなるような以前からそのシェルターにいた僕は死んでしまいそうなくらい弱りきった君が自らの孤独に押し潰されて儚く散ってしまいそうな顔をしながら震える手を差し伸べて近づいてくるのを感じて…。 少しの躊躇いの後に扉を開けた…君という存在を僕の心の奥に迎えてしまった。 そして僕は僕自身の為に作ったはずの心のシェルターの中に君を受け入れたことを気がつけば幸せに感じていた。 君の孤独に寄り添って、手を繋ぎ、凍えた心を暖めながら二人だけの秘密の言葉で会話し、ひそひそとお互いにだけ打ち明けられる気持ちをそっとお喋りして微笑みあう。 気持ちを許す君の隣で僕が与えるのはお互いお気に入りのお菓子を分け合うような楽しい日々。 けれどそれはいつかはさめてしまう夢。 「僕は君の側にはいられない…」 それを一番よくわかっていたのは誰でもない弥勒自身。 君は変わらない…出会った頃と何一つとして。 僕の言葉も仕草も気持ちも何一つ君を変えてしまう要素にはならなかった。 あの頃と変わらないものがあるのだとしたら、それはただ君が僕の心だという事だけ。 そして僕は君の我が侭を受け止めて永遠の時間を生きていく。 「大好きだよ…僕のリーズフェルト」 今はもう君の為だけにある僕のシェルター…だけどこの居場所から一歩を踏み出していい時期にきている。 だからこそ僕はそのシェルターを壊したのだ。 君が過去を振り返ることのないように。 「この身がせめて君が飛び立つための自由な空でありたい」 (……でもね、ほんとうは……) 恋の本能に苦しみながらでもいいから君の傍で他愛もなく笑っていたかった。 抱き締められていたトゥ・リアラは弥勒の息が震えている事に気がつく。 「君が僕の傍にいてくれて本当に嬉しかった…そしてごめん…力の無い僕で…」 弥勒の双眸から透明な雫が流れて落ちる。 トゥ・リアラの薄紅色の瞳からも涙の粒が幾つも零れ落ち、彼女は何度も首を横に振りながら労わるように弥勒の頬に手を添えて、慈しむように撫でた。 「どんなときも一緒にいて支えてくれたのも…ずっと隣にいてくれたのも貴方よ…ひとりじゃないと…私には沢山大切なものがあると教えてくれた」 もっと間近で言葉を伝えたいとお互いが思い、自然と互いの身体に腕を回して距離を縮める。 「力の無い僕でも必要としてくれる君が本当に好きだ…君も朱理も何も出来ない僕でも愛してくれる…」 「お別れなの?本当にお別れなの?もう二度と…戻れない?」 二人の小さなシェルターへは…。 「あれはもう壊した…必要のなくなった場所だから…君はもうきっと後ろを振り返らない」 頬と頬が擦り寄るほど、互いの吐息が感じられるほど、肌の温かさがまるで直に感じるように思えるほど二人は密に抱き合う。 それはいつまでもいつまでも互いに涙が乾いて紡ぐ言葉がなくなっても静かに静かに終わりなく続いたのだった。 朝の光りが地平から昇る頃、織姫がブリッジに出るとトゥ・リアラが一人で昨夜と同じように佇んでいた。 織姫はその背中に以前と同じように声をかけることが躊躇われ、しばらくの間じっと少し離れたところから見守る。 昨夜トゥ・リアラのなかに一体どんな心境の変化が起こったのか、その確かな理由を織姫は知らなかったが、彼ははっきりと感じ取っていた。 きっと泣いていたのだと。 同じ頃、西の空から飛行してくる一匹のドラゴンがいた。 両翼から虹色の光彩を持つ光りの粒子(鱗粉)を放ちながら飛行するその姿は全長が30メートルと5種いるドラゴンの中で最も小柄だが、 長い首の付け根近くの胸部には凄まじいエネルギーを発生させる核(コア)と、3本ある角のメインホーンからはプラズマを放電させるという最強の攻撃力を持つ種類。 このドラゴンの主翼は折りたためるが薄い膜状で昆虫の翅のような構造をしており、その翅を主骨が縁どっている。左右対称の2枚の翅(前羽、後羽)には翅脈と呼ばれる翅を頑丈にする骨格が広がっており、構造色と呼ばれる光の反射と干渉を利用した微細な多層膜構造が集まり、しかもその多層膜の高さが隣同士でバラバラであることによって造られた鱗粉が美しいオパールのような光彩を放つ。 そのドラゴンは真っ直ぐに織姫達の飛行船へと近づき、その距離を間近まで縮めると今度は速度を落として同じ速さで飛ぶ。 「フェアリー・ドラゴン…」 猛禽のように鋭い目をしたその竜がトゥ・リアラを視界に捉えると喉の奥から搾り出すように短く鳴き声を発した。 フェアリー・ドラゴンにもわかるのだ彼女の痛みが。 「なんでかわからんけど、アトレイユ様を見ていると放っておけなくなるのや…」 どうしてか彼女がボロボロに傷ついているように思えて。 太陽が昇る地平の先はもうすぐクロウェンの巫女がいる地だった。 |